その1:じっくり版



 公所

川と集落と家の名

◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
■ラビリンスの街・公所(ぐぞ)
 大和市北部の公所とは不思議な街です。東西へ伸びる座間街道東端の
1Kmを底辺に、北に2Kmほど広がった街。しかも鋭い三角形に似て、先端
を北部の相模原市へ突き付けて、上鶴間(かみつるま)へ消え込んでいま
す。

 三角地帯の中心は「つきみ野駅」。この地帯には南から「つきみ野一丁
目」から「つきみ野八丁目」まで、町名が整然と付けられている一方で、公
園は南から「つきみ野5号公園」から4、8、1号公園と町名などに関係なく
ナンバリングされています。「◇丁目」と「○号」とはどれ一つ一致するもの
はありません。計画にのった分かりやすい配置の町筋に相違ないが、いさ
さか馴染(なじ)めない人工的な面もある街です。

 山林や耕作地だったこの土地は、昭和に入って急速に開かれました。開
発を進めた第一は小田急で、大和市域のあちこちに地名「△△林間」が広
がりました。第二は戦後しばらくして路線を延長した東急で、地名「つきみ
野」が新しい地名となりました。
公所上村バス停
 地図を広げると、「林間」と「つきみ野」が、古くからの「下鶴間(しもつるま)」地帯をパッチワーク状に食い
千切って、元来の地名「下鶴間」があちこちに散在している現状です。周辺の都市よりも、新しい名を街に
命名し過ぎていることに気付きます。「下鶴間村」と呼ばれていた往古からの習わしは、ずたずたに切り刻
まれて、悲鳴を上げているふうで、施設や公園を名付けるのに、古くからの字や愛称にこだわる傾向は消
えさったようです。

 「つきみ野」の東に昔からの集落があります。「下鶴間村」の中の「村」とも呼ばれてきた特異な集落「公
所」です。

 もし、あなたが街になじみがないならば、「公所」はラビリンス(迷宮)の街であることを思い知らされるで
しょう。公所は坂の街、坂道が四通八通して家々を繋(つな)いでいます。上下して坂を行くと、三差路、T字
路、食い違い四辻(よつじ)などに出合うことでしょう。そして袋小路に迷い込むこともしばしば。そしてあなた
はひょっこりと前の道に戻って苦笑するのです。迷路仕掛けの街です。

 思えば、この坂道は村人たちが刻んだ作業道です。山林がまずあった、人は山林を一部開き、また遠方
に畑地を開拓していった、人が傾斜地を上り下りするうちに自然ジグザグの道が生まれていった、やがて
坂道にそって人家が建てられていったことでしょう。

 公所(南北2Km、東西は境川周辺までの1Kmほどの地帯)に、自然に対して謙虚に付き合ってきた長い
人の歴史を見る思いがします。坂道と迷路と向きさまざまな人家がその証拠です。古来呼ばわってきた家
の名、家々の群れの名称、坂や塚や林などの呼び名…当地の先人たちの暮らしの原風景が、この地区に
は残っています。私は、これは現代に残る珍しく貴重な景観の一つだと、声高に述べたくなるのです。

■谷戸(やと)川を溯る
  つきみ野駅前から西を臨むと住宅街に急な坂が下っています。下り坂は200mほどで、ふたたび上りに
転じます。なるほど、高座郡の丘陵地の原風景を想像すると、谷の深さと鋭さが実感できる地形です。

谷には底があり、川がくねっていました。「谷戸川」の川名もうなずけます。
 川上(北)へ辿(たど)ると、大きな窪地(くぼち)の「つきみ野1号公園」へ出て行方を妨げられます。この窪
地で、谷戸川は枝分かれしていて、東の分流には沼があり、雨量によっては水面を広げていたといいま
す。水辺には石の祠(ほこら)の弁天さまがあり、日照りの続く年には雨乞(あまご)いをするのが村の習慣
であったとか。天明元(1781)年当所巳待惣講中が奉納したものと刻まれています。近くには道路改修記
念碑が木陰に立っています。谷戸が深いので、急な小道がクネクネと通っていました。「テンジク坂」と名
付けた坂もあり、コンクリート造りのメガネ橋が明治期に架かったのもこの辺りだと聞きます。

 暗渠(あんきょ)が続き川の跡は途切れがち。野球場を抜けやや東にうねると、谷戸川を再見出来ます。
谷跡を探りながら溯り続けて、やがて浅間(せんげん)神社跡の西の低地です。谷深い川筋をさらに詰める
と、相模原市域の「上鶴間」地域に入ります。山陰をジグザグして上ると広い窪地・深堀中央公園で、視界
が広がります。公園を巡ると窪地目掛けて流れ込もうとしている川が見付かります。その上流4Kmの大沼
で谷戸川は果てるのです。谷戸川の源・大沼はかつて大きな池であったとか。

 この川と東の境川の間、南北に長い台地が、「公所」界隈(かいわい)の村人の生活舞台です。

■公所集落六つの群れ
 この地域の最高地点の丘の上に、「浅間神社」が建って
いました。「浅間」とは富士信仰の盛んになる江戸中期以
降からの名称で、以前は「鶴舞(つるまい)神社」。鎌倉幕
府のころはその名で知られています。北部の上鶴間、東
部の鶴間、当地の下鶴間の中心地の高みにある鶴舞神
社は、三地域の総鎮守でした。

 杉山神社は、16世紀末徳川家康が江戸に入ったころ、
高木(たかぎ)伊勢守が館(やかた)を境川の近くに構えた
が、当時この地の守護神として建てた社。公所の地名に
「高木」がある由縁でしょう。屈曲の激しい川のほとりに庵
(いおり)を結んだ定方寺(じょうほうじ)(1610年開創)は、水
害を蒙(こうむ)ることが多く、1690年に川を臨む丘上の現在
地へ寺を移しました。高木集落の一部も丘の上に住まいを
公所地区集落のつながり
移し、丘上の「上村(うえむら)」は人家が増えたことでしょう。南の「二津屋(ふたつや)」も古い板碑の存在
から高木・上村同様の古い家があったことが分かります。耕地を西に広げ家数も増えて、集落といえる六
つの群れを作っていきました。高木・上村・中村(なかむら)・下村(したむら)・二津屋・山谷(さんや)がそれで
す。高木・上村・山谷が子之社(ねのしゃ)、中村・下村・二津屋が住吉社(すみよししゃ)を鎮守として、講中
を結んでいます。

■イエナで親しみ合う村社会
 武蔵国との境、境川を鶴間橋で西に渡ると、公所です。南方向には鎌倉古道が続きます。ツケギヤ(付け木
屋)の隣がハシバ(橋端)隣はアブラヤ(油屋)、向かいの川端はワタヤ(綿屋)の分家が並びます。この古道の逆
方向は江戸道です。アユミチとも呼ばれていて、相模川からの捕り立てのアユを棒で荷担ぎして、早朝、この近道
を江戸青山方面へ走ったのです。シンミセ(新家)、サカシタ(坂下)、トコバ(床場)と丘の麓(ふもと)に並びます。
サカシタの西は上村へ上がる坂道。定方寺の前にはテラノマエ、以前は寺の表であったのが名の由来。テラノワ
キ、テラノヨコチョウが一筋つくって、またデグチ、アブラヤ、ナガヤ、タロウサマなどが別の一筋をなしています。公所
の名主を長くつとめていた古木家の屋敷には長屋門があったのか「ナガヤ」、泉の森の「郷土民家園」に農家を寄
贈された北島家が寺の横であったので「ヨコチョウ」、床屋も兼ねた農家の佐藤家は「トコバ」……、家の場所・職
業・集落の中の位置、家の特徴などにイエナ(家名)の起源はあるようです。

場 所 ・サカシタ(急坂の下)・ハシバ(橋の端)・テラノマエ(定方寺の前)
・テラノワキ・テラノヨコチョウ・デグチ(集落の端)・ハラ
職  業 ・トコバ(床屋)・ツケギヤ(付け木を商う家)・アブラヤ・ワタヤ
・ハンショウ(火の見の家)・オケヤ・カジヤ・ナベヤ・トーフヤ
家の特徴 ・シンミセ・サンダヤ・タロウサマ・ナガヤ・クラブ・シンタク・ホーエンサマ
集落内の位置 ・カサ(集落の奥の家)・オオタカギ(高木の一番奥の家)
・シモ(集落の一番下手の家)・オオザンヤ(山谷の奥の家)
地  名 ・フタツヤ・コウチ(耕作地)・スイドウ(水道路に近い家)
・ゴンベーヤマ(権兵衛さんの山林地の家)

■タイムスリップ・食い違い四辻(よつじ)
 公所を散歩して興味を引く場所は3つ4つではありません。中村の食い違い
四辻はその代表格だし、バス停留所の名「公所上村」からして好きになってし
まいます。この停留所はミツマタ状の交差点で、辻の真ん中に立って四本の
道を見ると...、どの道もすぐに右左へ曲がっているので見通しが利きません。
徳川時代からの四辻です。

 中村への道をとってみると、下り坂は左カーブで、先を見せようとしません。
左方に転じると、左右に大きな竹林です。行く先手を塞(ふさ)ぐ曲がり道が左
右に潜み、変形の四辻、食い違いの辻を造っています。

 手前の角地に阿弥陀(あみだ)さまが南面して立ち、先の角には地神塔は北
を向いています。食い違いの辻は坂途中にあり、2つの石像の目線はそっぽ
向きです。

 阿弥陀さまは寛文12(1672)年舟形の光背を背負う像で、「十六人之女人
為菩提也」などと刻まれています。その昔、疫病の大流行(だいりゅうこう)で
命を奪われた16人の女子を菩提(ぼだい)して造立されたものです。阿弥陀さ
まの足元に6つのピカピカに磨いた石ころが積んであり、茶とジュースの缶と
アジサイの花が供えてあり、今に生きる信仰を思わせます。

 地神塔は、昭和63年中村講中の奉献とあり、過去のご神体の何基目かの
再建なのでしょう。背後にあるまっ黒な石塊は、小正月のダンゴ焼きのときに
火の中に投ぜられるご神体です。江戸時代に溯るこの地域特有の民俗風習
です。厄から遁(のが)れる願いもこめて、行事は今も続いています。
公所・中村の四辻
公所・中村の食い違い四辻


中村四辻の地神塔
  中村四辻の地神塔
  後ろは真黒なご神体
 公所の中村の四辻は、食い違っているし、斜面なので立体感すら捻(ねじ)れるし、人の住み暮らしてきた
時の流れも捩(よじ)れてくる。その違いが幾枚かの皮膜となって、公所を覆い、絡んでいる。公所のラビリ
ンスのヴェールを解こうとすると、私の前の公所はさらに迷路めいてくるのです。

谷戸弁財天

  修復・動座された谷戸弁財天   
 朗報は突然である。つきみ野野球場脇(わき)の斜面に立つ「谷戸
弁財天」の石祠は、月日がたつほど打ち壊されていくのだった。屋
根が落ち、柱が崩されていった。心ない人の仕業を、ただ憎んで傍
観していた。ところが1996年6月15日に、浅間神社の境内へ修復の
上石祠は移された。柱が立ち基壇も造られて、旗も力強く靡いてい
る。正面鳥居には弁財天の名が描かれている。祠を守る地元公所
の関係した人々の快挙を、ここに報告させてもらいたい。



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