その4:じっくり版



 渡辺崋山と

大山道を歩くA

◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
 「大山道(おおやまみち)」は、ただただ西に向かう道、太
陽を追って歩く道である。

 天保2(1831)年9月21、22日のことだった。渡辺崋山
(1793〜1841・右肖像画)は鶴間宿(つるまじゅく)(現大和
市下鶴間)から上草柳(かみそうやぎ)、そして厚木の宿
(現厚木市)へと、西へ向かって旅をしていた。

 たどった道は現国道246号線にほぼ近い「大山道」(矢
倉沢往還と呼ばれた)道である。前項では、21日に下鶴間
の「まんじゅう屋」で泊まり、翌日出立するまでを書いた。

 今回は旅籠(はたご)を出立して目的である「お銀さま」と再会するまでの足取りを追ってみる。

■1 お銀さまを尋ねる渡辺崋山の旅
  「お銀さま」は、相州高座郡早川村(現綾瀬市)の人である。三州田原藩の第11代藩主三宅備前守康
友(やすとも)の侍女となり、友信(とものぶ)を生んでいる。しかし友信を出産してほどなく実母が急逝。やむ
なく江戸藩邸を退いて故郷へ戻った。

 12、13代藩主(兄・康和(やすかず)、康明(やすあき))を失うと、友信が藩主を継ぐ順となる。ところが第14
代には姫路藩から養子を迎えなければならなかった。理由は田原藩は小藩で経済状態が悪く、富裕な他
藩から藩主を入れるというのだ。友信は「巣鴨の老公」として退けられてしまう。

 渡辺崋山は、友信公誕生のころから子守り役のように身辺に勤めてきた。とりわけ正統な藩主決定を主
張した崋山には、藩主養子問題は痛恨の極みであった。そこで、不遇な「巣鴨の老公」の側用人となった
崋山は、老公の生母お銀さまを捜し当てたかった。

 天保2年の旅は、記録『厚木六勝図記』によると、「江戸藩邸に再び仕えるように説得して、丁重に迎え
たい」藩主の意志を伝えるための旅であったとか。

 大山道を行く崋山の旅は、いわば25年前に戻る慕情の旅でもあったろう。14歳のころ、崋山が輝き見た
21歳のお銀さまを尋ねる旅であったから。

■2 下鶴間村まんじゅう屋を出立して
 天保2年9月22日朝、晴れていた。「まんじゅう屋」を出立した崋山とお供の梧庵(ごあん)は、大山道を西
に向かった。

 下鶴間村の大山道は、『新編相模国風土記稿』に道幅四間(7.2メートル)とあり、今も昔もほぼ同じ幅で
ある。だが道の通う景観はどうであったろうか。

 崋山が宿を求めてたどった長谷川彦八家からの坂道は、急勾配の泥道。鬱蒼と両側から覆いかぶさる
樹木や藪の中を通う道であった。太陽の恵みを存分に受けて自由奔放に自然は生きていた。一方、人間
とはひっそりと大自然に寄り添っているかのようであった。


 今の鶴間駅の近くであったか、弟子の梧庵を連れた崋山は、「鶴間の原」で畑に精を出す農民に出合
う。

 尋ねると丁寧に桑の名「柘」「桑」や、養蚕によい種類を教えてくれる。

  耕者懇に某々と教ふ。
  桑ノ大葉ナルヲ作左衛門ト云。按スルニ、漢云、柘ナリ。細葉菱多キモノヲ村山トイフ。漢ニ云桑也。養
蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。
■3 柴胡見に来よとや開く秋日傘  高木厚子
    花淡き柴胡へ汗の顔寄する  高木厚子
  この広い台地の「鶴間原」は柴胡(さいこ)が多く、「柴胡の原」とも呼ぶことと、晴れているので、箱根・
足柄・長尾・丹沢・津久井の山々がいよいよ近くに見えると、書き留めている。

 先年盛夏の日、招かれて柴胡の花を見に行ったことがある。中学校長だった柴田勧さん(大和市林間在
住)の庭には、鉢植えが数百も並んで、珍しい草木で埋め尽くされていた。

 「ごらん、これが柴胡」
 ひょいと手にされた小鉢には、二尺もない丈の、スキッと直立した草があった。枝先に付けた、薄い黄ば
んだ粟粒ほどの花群れがかわいい。身は細くやせてはいても思いを高く掲げた、清楚さを感じさせる野
草。凛たる風情である。同行の画家滝とも子さん、俳人高木厚子さんともども、話題は膨らんで、先生の縁
先で楽しい一刻を過ごさせていただいた。その時、高木さんの詠まれた二句である。


 『神中鉄道沿線案内図〈昭和2年〉』を見ると、「大和駅」と「相模大塚駅」の間に柴胡ノ原とある。柴胡の
咲く野原として人の注目を浴びていた時代が長く続いたのだ。腰下くらいの丈の柴胡が、見渡す広野に一
面に広がっているのを想像してみた、風に揺すられて黄色い花々が波寄せ波打ち返す、大山道はその原
中を伸びていて、先には大山、富士が地平を画している、……それは幻の風景でしかない。今は野草とし
て拝見することはない。


■4 水の牛王=水の窪(くぼ)
  ほどなく大和市西端である。西鶴寺と大和斎場が林の中に建っている。このあたりが「水の牛王(ごお
う)」の地、下鶴間村・上草柳村(両村現大和市)・栗原村(現座間市)の三村の境であったとか。

 天保2年、渡辺崋山が当地を通行した年。この年に幕府はこの地の克明な調査を進めていた。
 地誌調査報告書『新編相模国風土記稿』126巻の編纂には、天保元年から12年まで要している。その中
の高座郡の項は、天保3年に完成したと思われる。記述している内容は崋山が見聞きした風物と符合する
はずだが、風土記稿のページを繰ると、「水牛王」とは、

  1.「三都乃古和宇」(みつのこわう)と読む。
  2.下鶴間村では三の郷(ごう)をなまったのだという。
  3.上草柳村では、熊野の牛王が流れ来たことがあってこう唱える。
 と、記録している。

 先年の旧暦9月22日、崋山が旅した日を選んで、有志者とともに綾瀬市のお銀さまの里まで歩いた。そ
の時同行された山下武雄さん(大和市福田の郷土史家・故人)は、三か村の接していた場所に立って、
「三つの郷とも言うが、水の郷のほうが妥当な解釈だろうな。三か村のはずれで、上草柳から下草柳にか
けて南へ流れる引地川の源流がここ。水の溜まる沼もあった。『水の窪』だからともいえる」

■5 大山道の今昔
 
 東京青山通りや川崎・横浜・町田を抜ける国道246号線は、江戸時代の大山道(矢倉沢往還)に近い
が、原形をあまり残していない。それに比べると、大和市を横切る部分はほぼ完全に昔ながらの道筋であ
るのに驚嘆する。

 明治14,15年測量、19,20年製版した迅速測図(近代的な測量地図第1号)を広げて見て、意外なことに
気付く。

 大和市下鶴間・鶴林(かくりん)寺西の坂上の「まんじゅう屋」から小園の北端「赤坂」までの7キロは、左
右にやや揺れるくらいで、直線に近い。大山道は南西を指すコンパスのように伸びている。これにそって作
ったのが246号線だが、ただ大和市西端、「水の牛王」から、南にそれて曲がっていく。行く手には、第二
次大戦時に広大な高座海軍工廠が設けられたためである。このブロックを取り巻くように、今の246号線は
ルートを描いている。


 西鶴寺前の大山道をたどると、雑木林に入りそして大和厚木バイパスにとざされてしまう。迂回して再び
大山道へ戻るしかない。

 工廠跡の記念碑を見たり、戦闘機「雷電」を組み立てた工場跡地や銀翼を押して厚木飛行場へ送り出し
た広い通りを歩いたり、戦後苦労して掘削した大規模な畑地灌漑(かんがい)用水路跡の桜道を行く。


 相鉄線「さがみ野駅」を左手に見て、「かしわ台駅」方向に進む。にぎやかな商店の建て込んだ交差点
「大塚本町」に出る。

 迅速測図を眺めると大山道がなぜここを通っているかが分かる。この大塚は、南の寺尾方面から刻む谷
と北の目久尻(めくじり)川側の谷が攻め上がって来る、細い尾根の上に位置している。下鶴間村・上草柳
村・栗原村の載る大きな台地を横断してきた大山道は、尾根沿いに高度を下げて大塚に至る。仮に大塚
で目久尻川の谷に下りると、谷の屈曲に左右された悪路になる。そこでこれを嫌って尾根筋を渡り、南西
に横断し切って国分(こくぶ)へ降り、相模川へ接近するのだ。

 これ以外に大山に向かうのに便利な歩きやすいコースはない。農地を結ぶ生活の小道とは違って、遠く
を結ぶ街道のコース取りにはそれなりの訳があることに気付かされる。


■6 道祖神・庚申塔の道
 
 街道であったしるし、道祖神(どうそじん)を見付けながら歩く。「かしわ台駅」手前の踏み切りを北へ越え
た三角辻に一体を拝見する。さらに進んだ先に、246号線に向かって立つ小さな石像の群れも見付けた。
古道を探索していると、オートバイに乗った白ヘルメットの人が、話し掛けてきた。珍しい庚申(こうしん)塔が
あると、国道を離れた草深い小径に案内してくれた。側面に『西 あつぎ 大山 東 江戸 道』と刻んであ
る。近くは赤土の滑りがちな峠で、いかにも江戸時代の大山道を思わせる庚申塔ではある。ではこの険し
い小径が大山道だったのか、かつての大山道の実体を捉えるのは難しい。
 画家の滝とも子さんが小さな石像を前に画筆を走らせ、古文書会の仁平厚さん
(故人)と当麻稔さんは風化した文字を読み取ろうと身をこごめる。郷土史家の山
下武雄さん(故人)は遠くに目を放って歴史を追憶する。数年前の秋だった。そん
なグループ行の情景を、野仏を前に思い起こす。

 『游相(ゆうそう)日記』の筆者渡辺崋山の足取りを確かめようと、何遍も歩いた。
この2月、独りで歩いた日は上天気であったが、寒さがとりわけ厳しかった。歩い
ても歩いても西の山並みは遠く、くっきりと地平に張り付いていた。重なるように雪
の富士が大山の肩に載っていた。まるで山に向かって歩き続ける感じであった。
大塚を過ぎ、柏ヶ谷に入る。気付くと富士は姿を消していた。大山が大きくはだか
って富士を隠しているのだ。

 歩く季節は違っても、いつも山に魅せられて引き寄せられるように南西に急ぎ、
やがて分岐点「赤坂」(右写真)へ出るのだった。
■7 お銀さまを尋ねて
 崋山は道中二度、お銀さまの消息を尋ねている。
 1.最初に聞いたのは、大塚の近く。お銀さまの父早川村の幾右衛門は酒に酔って川に落ちて死んだこ
と、娘は小園村の百姓清蔵に嫁いでいて、「朝夕の煙細う立つばかり」「お殿様のいたり給う所」ではな
い、と言う。

 2.柏ヶ谷の翁(おきな)からは、幾右衛門は酒好き、80歳で健在であること、娘4人のうちの長女は、江戸
に出て宮仕えして、花を飾り錦を着て帰ってきたこと。母を亡くし隣村小園の由緒ある旧家の嫁になる。両
家とも「いと貧しく世は渡れどいとまめたちたる」暮らしと聞く。


 赤坂で左南方へ大山道を逸(そ)れて、いよいよお銀さまの住んでいた小園村へ向かう。

 誠によはなれたる片いなかにて都の空もおもひ出られて、何となう物かなしく、たた、木くさの香ひたか
く、冷気人をうつ。かくしつつゆくほとに、鶏犬の声、遥に聞え、めしたく煙、麦搗音、都にめつらかなるここ
ちして又よろこはしう、なりにたり。先いそかれてはしり行。
 崋山の文章は、これまでの記録文体からがらりと
変わり、中世の物語風な香りを漂わせている。

 昼を回ってようよう赤坂に至った遅足の崋山の足
取りを追う者も、お銀さまに逢(あ)うべく先を急い
だ。

 古東海道といわれている竹藪に続く道を探り、高
見から南の村落を見下ろす子の社に至る。

 
 村落よき程に隔て、里の童むらかりあそへり。はしりよりて幾右衛門家はいつこそ、清蔵か家はいつこそ
と問へは、幾右衛門よりは清蔵か家こそ、近けれとことふ。されハその家おしえよと、銭くれて導とす。道
の傍に地蔵堂あり。


 崋山のスケッチ通りに延命地蔵堂を見付けることが出来る(バス停「小園団地入口」)。明治期までお堂
は寺子屋として近くの児童教育に使われていたという。寛政11(1799)年に第1代寺子屋師匠金子文績は
没しているので、崋山が通りかかった日にも、2代目か3代目が教えていたことだろう。付近には門弟が建
てた筆子墓がある。

 この地蔵堂から清蔵の家まではごく近かった。子どもが先を駆けて、崋山は後を追ったという。


小園村略図(左:オリジナル/右:現代語訳) 
 大きやかなるおもやにて、下屋木こや、左り右に
ならひて、粟所せう干ならへ、犬鶏ゐ守りて、かの
武陵ともいふへし。椽のほとりに立て、ものをとふ。
かしらに手拭をいたたきて、老さらほひたる女のい
つれよりにや、とおそるおそる問ふ。



 「武陵」とは、伝説の地武陵桃源郷のこと。妖(あ
や)しい洞穴を潜ると、目を見張る世界が広がってい
た、先代の子孫たちが現世とは関係なく幸せに暮
らしている風情であったという。この世を離れた桃源
郷のような村里で、崋山はお銀さまと再会する。
 25年の歳月は長い、共に容貌を変えてはいるが、しかし次第に確かめあって互いを認めるのにそう時間は掛から
なかった。
 
 絵図 左:民家の外観 右:会食風景(左から幾右衛門、お銀、崋山)
 お銀と申せし事もありやといえは、又、おとろきたる体にて、むかし江都にありし時ハ、左もよひし事あ
り。さあれハ君は麹町よりや入来り玉ふやと。はしめにかはりたる面にて、まつ奥の方ニ入玉えとハいえ
と、皆板敷にて畳なし。花筵持出て引き、これに坐を設け、さてかしらなる手拭を取すつれハ、まかうへく
もあらぬ其人なり。たたなみたにむせひて、たかひに問答うる事もなくて時移す。


 やがて子どもを紹介すると、昼飯となる。蕎麦かき二椀、酒三盞、どぶ酒、吸い物、豆腐、卵、梅干し一
箸、粟餅壱ツ。


 その人よろこひのあまり、何かなと工夫して、かくはもてなしくるなり。

 子どもの使いが走ったのか、実父の幾右衛門が隣村の早川村からやってくる。

 幾右衛門来、年七十八。強壮なる翁なり。又、行すへ、こし方の物かたりに、なみた落る事折々なり。
我身の上を語りてはなき、都の空を思ひてはなく、たたけふといふけふ、仏とや云ん、神とや云ん。かか
る御人の草の庵に御尋候はとて、むかしかたりに時移りて、日西にかたふく。かくあらんも農業のさまた
けやとて、行すえの事なと、うけ引て立出づ。長子清吉、馬引き出てのり玉へといふ。断てかちより行。
頭陀と笈とを助けられ、村堺迄、うからやから皆出ておくる。村の人々もきも打つふし、皆門に出立て見送
る。又、武陵の真堺を見ることしと、すすろに思ふ。


 日が傾くころになった。村はずれの小園橋まで、知らせに驚いた村人が皆、身分の高い武士を見送ろう
と並んだ。

 そして、崋山たちは5キロ先の厚木へ向かった。 
■8 お銀さまの墓「皈元聞外全修大姉」
 延命地蔵堂前のバス停から一つ先「新橋」まで足を伸ばし、お銀さまの墓(下写真)を訪ねた。目久尻川
に近い小高い丘に、婚家の一族たちの墓石が草地を囲んで並んでいる。その中に、墓はある。田原藩主
三宅康友の寵愛を受けたお銀さまの墓石がちんまりと座っていた。

 墓前には竹筒とガラスの小さな空きビンがある。中にだれが挿したか野の草が揺れて、冷たい墓石の上
には8,9枚の銭が丁寧に置かれている。
■9 渡辺崋山と大山道を歩く
 歩くということは、水平に場所移動するとともに、垂直に歴史をたどることでもある。
 今回の散歩では、江戸末期の人間・渡辺崋山の感情の高ぶりを覚え、妙に突き動かされるものを感じ
た。崋山が旅したのは、画家としての道を放棄せざるをえなくなったころで、海外諸勢力に対する知識を得
てほどなく大事に着手していく、そのわずかな平穏な年月のころであった。幕政批判を問われて囚われ、
蟄居の内に自決するのは、「游相の旅」の、たった10年後なのだ。


 帰り道、地蔵堂を拝見する。金網越しに寝釈迦(しゃか)像が右腹を下に寝ていらっしゃる。見詰めていて
気付いた。釈迦入滅の姿で、頭を北に横たわり西空を望んでいるスタイルなのだ。凝視した後、地蔵堂か
ら振り返ると、寝釈迦像は、まさに日が没しようとしている西に面しているのを知った。その西の山並みに
見えるものを感じ、山道を駆け上がった。するとやはり、大山の左に大きな富士があった。

 人々が救いを求めて大山に詣でる道、富士に参詣する道が、「大山道」であった。
 そして常にこの両山が歩む「大山道」の前に聳えていたのだった。

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