その7:ダイジェスト版



 深見地区 要石

〜鹿島橋・仏導寺周辺・イエナ〜

◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
■1 鹿島橋の架かる境川周辺
境川とブロック
大和駅から東に徒歩12〜3分、境川(さかいがわ)に架かる
一方通行の「鹿島橋(かしまばし)」がある。横浜市から西方
の大和市への一方通行の橋で、大和から横浜へ抜けるに
は下流の「境橋」へ回り道するしかない。

 この鹿島橋から境橋までが、昔、要石(かなめいし)とか宮
下(みやした)とか呼んでいた集落である。

橋の下を覗くと流れが渦巻いている。立方体のセメントブ
ロックが百数十も川底に沈んでいて、水流を堰いているの
が見られる。(写真1.2)ラグビー選手よろしく赤い背番号の
ブロックチームがスクラムを組んで、川水チームに抗してい
る。一個一個、背の165、166、167
と書かれている赤の背番号は、もう
汗と汚れで薄れてはいるが・・・。

 境川は、鹿島橋とすぐ上流の相鉄
鉄橋を立て続けに潜っている。鉄橋
付近で大きく「く」の字に急カーブ
を切っている。流れは曲がり目の堤
に当たって巴に渦巻き、深みを増し
ている。下流の鹿島橋下で群立する
ブロックチームが堰いているから
川水とブロック

境川と電車
 相鉄電車が、高い金属音を上げて、境川を
渡ってくる。(写真3)

 線路の南側には平坦な地が広がり、奥に住
宅が点在する。青空と地平を限るのは、背の
高いケヤキ林。まだ葉を付けない黒い裸姿
だ。その下には松杉の常緑樹が割り込み、そ
の中程を刷毛をはいたような薄紅色が彩りを
添えている。訪ねた日は、桜花が盛りを過ぎ
ようとしていた。
■2 仏導寺・深見神社
 
春、桜で装う仏導寺(ぶつどうじ)は
1年のうちで一番華やいで見える。
 寺伝によると、天文年間、1532年
〜1555年ごろ、称念上人が開いた
という仏導寺。大和市指定重要文
化財4件が、この寺にはある。

1.石段の右手、「南無阿弥陀仏」と
刻まれた徳本念仏塔(写真5)頭の
 
尖った角柱の塔で、右側の文字からは、建立が文政元(1818)年であったことが分か
る。前年は浄土宗の僧侶・徳
本行者が相模(さがみ)国を巡行して教導・遊化(ゆげ)
した年だから、この時、信心を深めた近在(深見・鶴間・瀬谷ほか)の人々が
造立したに違いない。碑面の味わいのある文字「南無阿弥陀仏」は、徳本上人
独特の書体である。

 2.境内に上がって右の梵鐘(ぼんしょう)は、大和市に残るのではもっとも古い
元禄11(1698)年の鋳造。(写真6.7)鋳工は江戸に住む鋳物師(いもじ)・木村将
監安継、同三郎兵衛安信。
 仏導鐘楼
仏導寺梵鐘記銘
 慶長の板碑(拡大)
慶長の板碑

 仏導寺坂本家墓
 
深見神社号標碑
 3.左の墓地奥には、
高さ90センチ大のおも
むきある板碑がある。
(写真8.9)「慶長三
(1598)年二月十二日 
称誉妙讃信女」の刻字
の上に梵字が飾られて
いる。

 
深見神社正面
 
深見神社なんじゃyもんじゃ樹
 4.本堂奥の墓地には、江戸幕府の旗本坂本家の墓三基が祀られている。(写真10)坂本氏とは、代々深見村を治めた領主。天正19(1591)年に深見村に入ったのは二代貞次で、中央の墓が三代貞吉、左がその夫人、右端が四代重安の弟貞俊と思われる。
 寺に南接して、古い社がある。「相模国十三座之内深見神社」という社号石標(写真11)の立つ深見神社(ふかみじんじゃ)である。(写真12.13)
 延喜式(えんぎしき)神名帳に名を連ねる古い神社なのだが、明治9(1876)年に仏導
寺炎上の際に貰い火して焼け落ち、貴重な古文書類を失った。社伝を詳しく裏付ける
ものが少ない。

■3 堰と用水
 仏導寺と深見神社の建つ崖の高みを東へ降りると、境川まで平地が広がっている。こ
こ要石地区は今でこそ住宅地のように変わっているが、つい前までは田が広がってい
た。一段高い丘の端に代々住まう青木稔さんは、境川を越えて水田を渡る涼しい「巽
(たつみ)の風」を思い出すという。

 氏の話によると、そのころ用水は相鉄線鉄橋少し上流の堰から引いていた。堰からわ
ずかな下り勾配でアゲボリ(揚げ堀)が設けられていた。アゲボリは、丘の縁にそって南
へ南へと刻まれていた。全農家が利用する用水であるだけに、堀と堰の維持強化は農
家にとって大切であった。取り決めた日取りに全村民総出でホリサライ(堀さらい)をし、
秋にはセキバライ(堰払い)をして取水をやめ、また春になると堰造りするのが、村の年
中行事だった。堰とは簡単な工作物で、橋構造のものに柱を数本川中に立て、これに
板を添えて水を堰くのである。橋構造の工作物を常設するまでは、福田(ふくだ)など近
くの村と同様に、土砂を俵に詰めて川中に投入したとか。取水口や堰の周辺はしっか
りと堤を造り固めるのが要諦(ようてい)であるから、土砂や竹木を使った土木工事が基
本であった。土砂は近くの崖を崩して採っていた。要石では、仏導寺の丘の東辺がこ
のドトリバ(土採り場)であった。

 大正8年春、堰普請に取り掛かっていた。その最中にドトリバから骨、壷、甕が多く掘
り出されて、村中大騒ぎになったことがある。壼などは大和小学校に保管を依頼したと
いうが、今は存否不明である。

 このアゲボリあとを南へたどると「かしま二号公園」に出る。南西の一隅に建つ「開発
記念碑」が土地区画整理の苦心を伝えている。ここ一帯は相鉄が造成し、今では瀟洒
な住宅街となっている。昔からの集落では根道がくねくねと縫っているのに対し、新住
宅地の街路は直交し田の字の街を造っている。
■4 家の呼び名・イエナ

 坂を西に少し上がると、古道
が南北に走っている。南に辿る
と、左右に昔からの家が大きく
構えている。地元の方に伺う
と、家の名(イエナ)が付いてい
る家が多い。

 要石地区のイエナは、十八ほ
どである。その由来はいろいろ
である。明治大正期の家の仕
事から名付けたものや、徳川時
代に同じ名を称し続けた家名
であったり、集落内の場所によ
る呼び名もある。また主たる家
との関係で裏や表に当たる家
の場所からの呼び名もある。イ
エナを伝えによって解釈してみ
ると、次の通りである。

イエナ イエナの解釈

サンゴクメ 三石目  命により幕府の用をおこなっていて、 扶持(ふち)米を三石もらっていた家

カサヤ 笠(かさ)を造っていた家 後に販売だけをしていたという

アブラヤ 油屋 菜種を絞って油を採る商(あきな)いの家

トーフヤ 豆腐の製造販売する家

ナカムラ・ナカヤ 集落の中心地にある家

セド 本家(キヘーサマ)の裏の位置にある家

ムケー 本家の向かい(ムケー)にある家

メー 本家の前(マエ)にある家

オキ 本家から遠く離れた家

ゴロベーサマ 先代から使われてきた名

セーべーサマ 先代から使われてきた名

キヘーサマ 先代から使われてきた名

デンベーサマ 先代から使われてきた名

テンダイ 天台? 天代? 台地の上の家 名主

シンタク 新宅  分家 別家

ミセ 雑貨屋(食料衣料品など)
 富沢美晴さんは、今も電話を受けるとき、「セーべーサマだよ」とイエナで応答するこ
とがある。「サマ」もイエナの名称であるので、自分を「セーべーサマ」と表現するのだ
が・・・と、苦笑される。
■5 今、境橋 昔、番田橋
 要石地区の南端は主要地方道横浜・厚木線付近である。この地方道が境川を境橋
で越している。

 昭和9年、不況続きの世の中だった。だから厚木街道沿いに県道を工事するとは、有
り難かった。当地区の農民たちはこぞって参加した。路盤を掘削したりトロッコを押して
土砂運搬したり、土木仕事に取り組んだ。境橋も架橋した。施工が終わると、県道近く
のシャカンドー(釈迦堂)跡で祝いの席が設けられたと、記憶する人もいる。

 境川には、それまでは小さな「番田(ばんだ)」橋が架かっていた。「橋のたもとに幕府
の巡査に当たる者が住んでいて番をしたので、番田と名付けたのだ」と、テンダイの青
木利光さんはいわれる。

 「番田」には、深見村の領主に納める米蔵が数棟建っていたという。この蔵の前庭で
年貢米を「斗(と)立(だ)て」をし、俵詰めして蔵の奥に積み上げたものだ。年貢米1俵と
は、3斗5升入りであったが、実際は2升を上乗せして3斗7升を俵に詰めるのだった。こ
の2升を加えることを「斗立てをする」といった。深見村の名主・組頭・百姓代の村役3人
が立ち会う、農民にとっても米1粒たりとも疎(おろそ)かにできない厳正な業務であっ
た。

 番田とは、江戸移送の前の年貢を収納管理し、蔵の警護と村の平安を維持するのが
役割であったのだろう。
■6 テンダイ坂と半鐘
テンダイ坂  番田のあった橋のたもとから昔の道を辿って坂
を上ると、急傾斜の崖にそって道は続く。テンダ
イ坂という。
(写真14)
 テンダイ坂の上部に林がある。その奥の、天に
でも上がる位置に豪壮な名主の舘(やかた)が建
っていた。このテンダイから境川を臨むと、北か
ら南へ水田が広がり、番田橋近くに番田の米蔵
が見えただろう。

 今、テンダイ坂の下の四辻に、2階造りの小屋が建っている。軒下に赤灯が下がり、
鎧戸には「大和市消防団第三分団三班」とある。裏に10メートルはある櫓が立ち、先端
には半鐘が下がっている。 (写真15.16)この上からは、どんな風景が臨めるのだろう
か。

消防の半鐘塔
 
半鐘


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