←太平洋戦争後、昭和30年過ぎから、「○ ○林間」「つきみ野」などと名付けられた一帯 は、ずっと長い間、「下鶴間村」でしたし、「字 下鶴間」でした。 現つきみ野の東側に昔から「公所」(ぐぞ)と 呼ばれている集落があります。「下鶴間村の 中の村」とも言われ、坂道や三叉路、T字路、 袋小路など、まるで迷路のような集落です。 写真のバス停の読み方は「ぐぞうえむら」で す。 |
上のバス停に近い公所中村の
食い違い四辻。左手の角に写っ ているのは、石の阿弥陀像で す。1672年に疫病でなくなった 人たちを菩提して立てたもの。石 像の前には花や飲み物がきちん と供えられていて、今に生きる信 仰心を感じます。 |
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←高低差の激しい公所地域ですが、そ の一番高い丘の上には「浅間神社」(江戸中 期以前は「鶴舞神社」の名称)が立っていま した。 浅間神社は上鶴間・鶴間・下鶴間地域一 帯の総鎮守でした。 公所はこの神社を中心に、谷戸川と境川 に挟まれた台地に広がった集落です。そし てネノシャとスミヨシシャを身近な社として、 六つの集落を作っていました。 |
右の阿弥陀像の立つ角のはすか
いにある地神塔。「昭和63年中村講 中奉献」と刻まれており、何基目か の再建だと思われます。 背面にあ る黒い石は「ご神体」です。 毎年、小正月の「ダンゴ焼き」の際 に火の中に投じられるもので、この 民俗風習は厄払いの行事として、 江戸時代から続いています。 |
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←「谷戸弁財天」は、つきみ野野球場の脇 の斜面に江戸時代から安置されていた石祠 です。しかし屋根も落ち、いたずらで壊されも していました。それが平成8年6月、浅間神社 境内に移設されました。屋根も柱も修復され て、最近は赤い鳥居も立ち、雰囲気は一新で す。「下鶴間の人々」の多くの善意があったこ とでしょう。 |
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