その3:じっくり版



 渡辺崋山と

大山道を歩く@

◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
■1 『游相日記』
 ここに1冊の本がある。
 大和市域の秋の風景、人家のたたずまい、村の寄り合い、宿の老亭主の応対、宿賃、田畑の作物、遠
望の景色を、スケッチまで添えて描いている。

 本の名は『游相(ゆうそう)日記』。時は
天保2年、1831年。エッセーかドキュメン
タリー記録か絵付きの旅日記か、自由
奔放な記録書である。書名「游相」とは
「相州に遊ぶ」意。つまり渡辺崋山(かざ
ん)が「神奈川県方面を自由に楽しんだ
ときの旅日記帳」がこれである。

 内容は、天保2年9月20日から25日ま
での旅日記。紙数は68枚で、縦19.3セ
ンチ、横12.8センチの和紙を袋綴(ふくろ
と)じした冊子スタイルである。

 渡辺崋山(右肖像画)は、文人画家・
洋学者としても名高い人物。8年後には
『蛮社の獄』(崋山・高野長英らの言論
を弾圧した事件)で蟄居(ちっきょ)の刑
(外出禁止の刑)を受けて、2年後、自刃
し果てた。


■2 旅の背景
 渡辺崋山の仕えた田原藩第11代藩主三宅康友(藩邸は現三宅坂付近)には、侍女お銀に産ました子友
信があった。12代は長子の康和、13代はその弟康明が継ぐ。康明が没したのは文政10(1827)年であ
る。後継選びが難航した。康明に子どもがいないので、康明の義弟友信を崋山は推挙した。しかし藩財政
の窮乏を救うために、富裕な姫路藩主の六男を藩主後継に迎えることになった。

 藩主になれなかった友信は、下屋敷(現文京区小石川植物園付近)に「巣鴨の老公」として住まうことに
なり、崋山は、側用人(そばようにん)として仕えていた。

 そして4年が流れた。
 天保2(1831)年9月20日、崋山は老公友信の意中を図って、実母お銀を探す旅に出た。旅先は相州高
座郡下鶴間村(現大和市)を通り、小園村・早川村(現綾瀬市)近くに住むお銀の父親、幾右衛門から、消
息を知ろうというのである。

■3 大山道
 
 大山道は、現在の東京・赤坂
見附から西へ、青山通り・玉川
通り・厚木街道と名前を変えな
がら延びる道(ほぼ国道246号
にあたる道)をいう呼び名であ
る。スタート地点により大山にい
たるコースは多いので、「大山
道」はほかにもあるが、江戸から
のポピュラーな道順は、これであ
る。
 往来した旅人は多い。しかし
江戸近くであるためか、大山道
の道中の風物や人物を生き生
きと描いた文書は見当たらない。
 
 その上、大和市市域を記録した明治時代以前の紀行文スタイルのものは『游相日記』一点しかなく、それだけ
に貴重な資料である。
■4 『游相日記』第1、2ページ
   天保辛卯九月廿日。拉梧庵
   高木子之相厚木。 時
   天翳雨到。購簑
   笠。銀十一銭三分。又買
   胡 粉朱砂。価僅一銖。訪
   太白堂主人長谷川氏。 到
   青山飯酒肆。投銭二百
   三十去。
   幾ほともあらて帰らん旅なれと
   しはしわかれに袖しほりぬる 梧庵
   道元坂購煙管。銅銭七十文。
 
 天保辛卯【二】年9月20日、高木氏梧庵【半年前に弟子入りして同居していた京都の人】を連れて相州の
厚木に行く。時に天曇り時雨が降ってくる。簑(みの)笠(がさ)を買う。11銭3分。また胡粉(ごふん)【白色の
顔料】や朱砂【赤色絵の具】を1朱で求める。太白堂主人長谷川氏【六世太白堂孤月は大山道では有力な
俳諧(はいかい)の宗匠】を訪ねて酒店に誘い、道中の詳しい道筋や宿の紹介を願い、別れを惜しんだ。

 連れの梧庵、一首を詠む。

  ほんの数日もしないうちに帰る旅だが
  しばしの別れに旅衣の袖(そで)も
  涙(時雨)で濡(ぬ)れることだ

  道元坂で煙管(きせる)を買う。銅銭70文を支払う。

 この文の左には、スラリと縦長に煙管を描いている。日記にはこの煙管に始まって20のスケッチが散り
ばめられている。歌・発句などはこの梧庵の一首のように作者自身が筆をとって書き付けたものが7作もあ
る。これらが崋山の優れた文章とともに、『游相日記』をたぐいのない多彩な記録書にしている。

 当時、渡辺崋山は39歳、梧庵24歳であった。

■5 武州から相州へ
 半蔵門近くの田原藩上屋敷を出て、渋谷・目黒・用賀・瀬田・二子・溝口を通る。1泊目は武蔵国都筑郡
荏田村の旅篭(はたご)屋枡(ます)屋(現東急江田駅の東京寄り)。同宿の商人などと酒を飲み、絵を描い
たり、発句を亭主や梧庵と作ったり、夜遅くまで楽しんだ。

 翌21日、朝遅く荏田を出立。途中、長津田で太白堂の門人兎来や琴松と会って句作に熱中した。
 そしていよいよ相模の国に入る。

■6 下鶴間村宿
 34ページから35ページにかけて大きな入母屋(いりも
や)の茅葺(かやぶ)き屋根をのせた家『まんちう【まんじゅ
う】屋の家』を描いて、その右肩にこう書いている。


 鶴間武相ノ境川ヲ高坐(タカラ )川ト云(フ)即(チ)相ノ
高坐郡なれハなり


 高坐川は、今の境川である。観音寺が右に見える。そ
の少し上流に堰(せき)を設け、「アゲボリ」(揚げ堀)へ川
水を導いている。川から高みの畑へ網の目のように水が
配られていく。その水勢を利用した水車小屋もある。崋山
たち2人は境川と揚げ堀に架かる橋を渡って、相州下鶴
間村宿へ入った。

 鶴間といふ所二あり。一を上とし二を下とす。下は赤坂の達路、駅甚(だ)蕭々、わつかに廿軒はかりあ
りぬらん。左り右りより松竹覆ひしげり、いといとよはなれたる所なり。


 同時代の公文書である『新編相模国風土記稿』【江戸幕府が昌平黌(しょうへいこう)地理局に、1830(天
保元)年から41(天保12)年にかけて編纂(へんさん)させた風土記】には、「下鶴間村 江戸より行程十一
里余 戸数百二十二……当村矢倉沢往還八王子道の駅郵にて人馬の継立をなせり」などとある。これか
らはにぎわう村落のように想像されるが、崋山の目に映った「宿」は、「はなはだ世を離れた所」、寂しい村
落であった。

  『游相日記』にはない
が、当時の宿を文献と古地
図でイメージすると……、

 下鶴間村宿は、「人馬の
継立」をする、公私の旅人の
ために駅馬や人夫を常時備
えておく所であった。店も並
び、宿泊する旅籠も多かっ
た。境川を渡り蜂須賀家を
左に見て過ぎると、旧鎌倉
道を挟んで名主を勤めた伊
沢家と瀬沼家が建ち並ぶ。

伊沢家から東が「東分」(旗
本江原氏支配) 、瀬沼家
から西が「西分」(旗本都筑氏支配)であった。
 大山道が八王子道と交差する場所には、高札場があり、幕府からのお達しが高々と掲示されていた。番
所も設けられていた。交通の要所である。今も派出所が建っているのは興味深い。手前左には旅籠「松
屋」、右奥には旅籠「片井屋」もあった。八王子道を過ぎると、右には旅籠「三津屋」、左側には「小倉家」
がある。平成六年夏、黒船の墨絵の描かれた床板が発見された家である。

 兎来伝書して長谷川彦八といふ豪農ノ家に
行(く)。門塀巨大、書ヲ伝ふ。其(ノ)家、賓客
屏列、飲膳甚(ダ)盛也。宿ヲ不乞。


 崋山は俳人の兎来の紹介状を持って、この
長谷川家を訪ねる。当時、目黒川は屋敷の北
から東を巻いてさらに南側に湾曲して流れてい
た。屋敷の南側には巨大な門塀がある。この
正門前で川は左に南流していく。大山道は、
門前で目黒川を土橋で渡り、登坂へ続くのである。この小さな川にも堰があり、揚げ堀を通して水は耕地
へくまなく流れこんでいた。台地の畑地は、水の悩みは付き物である。川水は少なく、水位は低い。水対
策が欠かせない村であった。

  『游相日記』に戻ると、大きな門構えの長谷川家には、大勢のお客がにぎにぎしく飲食を楽しんでい
た。崋山と梧庵は宿を頼まず、先を急ぐ。

■7 まんじゅう屋
 角屋伊兵衛、俗にまんちうやといふ、家に宿す。四百三十二銭。
 まんちう屋のあるし婦夫■荻■といふ村に婚姻ありて、行(き)ておらねは、湯なとの用意もなし。膳もま
つかるへしとて、其(の)父なる翁、孫なるむすめはかりなり■いさよくは御とまり あれや(と)いふ。酒を
命し、よし、飯うまし。


 長谷川家を出て目黒川の土橋を渡る。右から山が迫って、坂道になる。鶴林寺の前の坂は昼なお暗い
道であった。樹木が生い茂っていた。赤土の坂道は、夕方まで歩き続けて来た旅人の足にはつらかった。
ようよう坂を登り詰め、三差路に出た。左側には旅籠「ちとせ屋」、右には饅頭(まんじゅう)を売る旅籠があ
った。立ち寄る二人に、旅籠「まんじゅう屋」の主(あるじ)は、若夫婦は婚礼に行って不在なので、湯などは
用意していない、食事も貧しいだろう、父
なる翁(おきな)と孫娘ばかりであるが、
それでよろしかったら泊まっていってくだ
さいという。酒を頼んで飲む。味がいい。
飯もうまい。連れの梧庵と二人で宿賃
432銭であった。

 「角屋伊兵衛」と日記にあるが、崋山
は2軒を混同しているようだ。角屋とは西
隣の瀬沼義右衛門の屋号、まんじゅう
屋は、瀬沼家の屋敷の一部を買って、
初代土屋伊兵衛が開いた旅籠で、饅頭
も商っていた。この旅籠は関東大震災の
ときに傾いたが、しばらくは大切に手入
れしていたという。当時は南向きだった
が、その後西向きに建て直した。今また
南向きの屋敷を新築している。昔の面影
は今はない。

 数年前、土屋タケさんに、旅籠の模様
 
をお聞きした。それぞれの部屋の向きや配置については多少記憶のかなたにあるのも致し方ない。しかし
個々の部屋の特徴は克明に覚えておられた。そこで旅籠としての機能を残していたころの「まんじゅう屋」
の略図を大胆に描いてみた。正面入り口の畳の間や客部屋を区切っていた廊下の様
子、大きな柱が部屋境に立っていたことや南半分の客部屋と北半分の住居部分が厚い
壁で仕切られていた様子など、普通の居宅と違うことが分かってきて、興味尽きない話
ではある。

 土屋家には、江戸時代の旅籠の証拠が残っている。江戸火消し「く組」の定宿の札(左
写真)がそれである。縦50センチほどの分厚な木札で、表に「く組」と大書され、裏には
「天保十一年」などと筆書きされている。く組の火消しとは、8代将軍吉宗の時代、吉宗
公が享保15(1730)年に制度化した江戸火消し組の一つである。く組は今の新宿伊勢
丹辺りから四谷見附界隈(かいわい)を受け持つ消防隊であった。く組は毎年夏に大山詣
(もう)でをしていた。その折り、「まんじゅう屋」に泊まる常連であったのだ。江戸から11里
(徒歩11時間くらいの距離)の距離にある下鶴間村宿は、ほどよい泊まり所であったよう
だ。


■8 まんじゅう屋を出立し西へ
 廿二日 晴
 田圃の間に出(づ)れは、此(の)邊も又、桑柘多し、田圃の間に出(づ)れば、雨降山、蒼翠、手に取る
はかり。蜿蜒(と)して一矚の中に連るものは、箱根、足柄、長尾、丹澤、津久井の山々見ゆる。耕者、懇
に某々と教ふ。


 まんじゅう屋から大山道を西に進む。山王神社を過ぎると、数軒の家しかなかった。一番西の村はずれ
の家は、「はずれ」と呼ばれていたそうだ。

 この先で崋山は畑地で働く百姓に出合い、会話を楽しんでいる。武家としてではなく、「游相」の気分で
自由な私人として、人物や風物を観察しているのだった。


 鶴間原に出つ。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よって、柴胡の原ともよふ。諸山いよいよちか
し。


 「縦」とは南北、「横」とは東西のことであろう。この「鶴間原」の広がりは、多摩丘陵と相模川に挟まれた
相模原台地に相当する。

 鶴間原は「柴胡(さいこ)の原」の異名があったという。それほど柴胡が野生していたのだ。夏、柴胡は黄
色いごく小さな花を付ける。50センチくらいの丈で、ごくおとなしい引っ込み思案な風情の野草である。この
春、柴胡を調査したことがある。しかしこの地域で自然のままの柴胡は見ることが出来なかった。この台地
を「柴胡の原」と呼んだほど、柴胡が見慣れた野草であった時代は、夢幻(ゆめまぼろし)である。

 やがて大塚・小園へ進み、旅の目的の一つを果たす。かつての藩主三宅備前守康友の寵(ちょう)を受け
て後の老公康友を産んだ「お銀さん」と劇的な出合いをすることになる。『游相日記』の中ではひときわ名
文で綴(つづ)られているくだりである。


 次回の歴史散歩では、足を伸ばして小園村へ行くことにしたい。野に埋もれた庚申(こうしん)塔や道しる
べなども道はずれに訪ねて、崋山の急いだ山道に野仏を拝んだり、日記に登場する地蔵堂などを経て、お
銀さんの墓までを歩く予定である。

 ともあれ、ほどなく黒船の来航が盛んとなり、外国事情に通暁していた崋山らは、囚(とら)われの身とな
る。理由は幕府に謀反したとされる「蛮社の獄」の一件である。渡辺崋山は自刃したのは、「游相」の旅か
ら、わずか10年後であった。

(続く)

※無断で転載・転用することはご遠慮ください。ページを印刷し、資料等と
して複数の第3者に配布したい場合は、事前にメールでご相談ください


       ダイジェスト版へ
   やまと歴史散歩メニューへ
   TOPへ