◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
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鶴間橋付近
『テングハナ』
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↑大和市の北端から見て境川の左岸、鶴間橋の辺りにぽっかりと窪んだ空地が50メ
ートルも町田市内に突っ込んでいます。町田側から望むと、定方寺の建つ高みが天狗 の面、川の流れが天狗の鼻に見えます。この地点は川の改修前、『テングノハナ』と呼 ばれていました。 くねくねと流れる境川は、改修されるまでは「アクタ川・アバレ川」などと呼ばれ、たび
たび氾濫して家や田畑を押流していました。『テングノハナ』は当時の「アクタ川」の姿 を彷彿とさせる場所です。 |
右から4行目、「舞神社」を何と読むかわかり ますか? これは、古木家文書「相模国旧社北条神名録」 の一部です。文亀3(1503)年11月、北条早雲が 相模国にある神社名を書き留めさせた記録の写 しです。 「」は、「つる」と読みます。この舞神社が今 の浅間神社ですから、16世紀初頭には、社があ ったことが分かります。 |
「浅間神社」は、冨士信仰がはやる江戸
時代に故あって、改称した結果と思われま す。舞神社が今の相模原市「上鶴間」大 和市「下間」町田市「鶴間」など、農村地 域の総鎮守であったのです。江戸時代の地 元の文書では、下鶴間村をすべて「下間 村」と書いています。「つる」は、鶴やなど とは別に、「高」を偏にして鳥と書いたり、は げしい・早いを意味する「雨冠に隹」を偏し て鳥と書くなど、いろいろです。意味はそれ ぞれ違いがあるようですが、でも、下「」間 村と統一されていたのか、なぞですね。 |
江戸時代、富士信仰が盛んになった時期には、
関東一円いたるところに「富士塚」があったそうで す。 写真もそんな「富士塚」のひとつ。浅間神社の中
に今もたたずんでいます。 古い文書によれば、浅間神社一帯のこんもり茂
った森林地帯を「富士山」と読んでいた時期もあ るようです。 ご存知のように、江戸時代には富士山の噴火が
あり、その降灰による影響はこの地域にも大きくあ ったようですから、地元の「富士山」に詣でる当時 の人たちの信仰心がしのばれます。 |
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