◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
|
■1 鹿島橋の架かる境川周辺
|
小田急と相鉄がクロスする大和(やまと)駅から東に12〜3分も歩くと、
珍しい橋がある。境川(さかいがわ)に架かる一方通行の「鹿島橋(かし まばし)」である。横浜市から西方の大和市へ越える車はいいが、東、 横浜へ抜けるには下流の「境橋」へ回り道するしかない。 この鹿島橋から境橋までが、訪ねにきた地域で、昔、要石(かなめい
し)とか宮下(みやした)とか呼んでいる集落である。 「なぜ、水音が高いのだろう」
橋に立つと、足下から強く瀬音が押し上がってくる。橋脚を覗(のぞ)くと
流れが渦巻いている。立方体のセメントブロックが百数十も川底に沈ん でいて、水流を堰(せ)いている。(写真1.2)ラグビー選手よろしく赤い背番 号のブロックチームがスクラムを組んで、川水チームに抗している。一個 一個、背の165、166、167と書かれている赤の背番号は、もう汗と汚れ |
で薄れてはいるが・・・。瀬音は選手の雄叫(おた
け)びのように響いてくる。 境川は、鹿島橋とすぐ上流の相鉄鉄橋を立て続 けに潜っている。鉄橋付近で大きく「く」の字に急カ ーブを切っている。流れは曲がり目の堤にドンっと当 たって巴(ともえ)に渦巻き、深みを増している。理由 はすぐ分かった。下流、鹿島橋下で群立するブロッ クチームが堰いているからだ。ブロックに突き当たり、 川水は、白く跳ね上がり、宙で互いにぶつかり、あら げざわめいて、下っていく。立ちのぼる川音は、長雨 時に特有な響きなのだ。 |
|
赤いラインを、ピカピカのシルバーの車腹に巻いた相鉄 電車が、高い金属音を跳ね上げて、境川を渡ってきた。 (写真3)横浜からの車両は、橋を越えると、十両連結の 胴体を上下にうねらせながらトンネルへ跳び込むように 潜り、大和駅へと滑り込んでいく。 線路の南側には平坦(へいたん)な地が広がり、奥に 住宅が点在する。久しぶりに見る青空と地平を限るの は、背の高いケヤキ林。まだ葉を付けない黒い裸姿だ。 その下には松杉の常緑樹が割り込み、その中程を刷毛 (はけ)をはいたような薄紅色が彩りを添えている。訪ね た日は、桜花が盛りを過ぎようとしていた。 |
■2 仏導寺・深見神社
|
|
散り敷く桜が寺へ登る石段(写真4)を飾って いる。黒いシルエットの鐘撞堂(かねつきどう) に花びらが舞い寄っていく。春、桜で装い、仏 導寺(ぶつどうじ)は1年のうちで一番華やいで 見える季節だ。 寺伝によると、天文年間、1532年〜1555 年ごろ、称念上人が開いたという仏導寺。大 和市指定重要文化財4件が、この寺にはあ る。 |
|
1.石段の右手、「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と刻まれた徳本念仏塔。(写真5)頭の尖(とが)った角
柱の塔で、右側の文字からは、建立が文政元(1818)年であったことが分かる。前年は浄土宗の僧侶(そ うりょ)・徳本行者が相模(さがみ)国を巡行して教導・遊化(ゆげ)した年だから、この時、信心を深めた近在 (深見・鶴間・瀬谷ほか)の人々が造立したに違いない。碑面の味わいのある文字「南無阿弥陀仏」は、徳 本上人独特の書体である。 2.境内に上がって右の梵鐘(ぼんしょう)は、大和市に残るのではもっとも古い元禄11(1698)年の鋳造。
(写真6.7)鋳工は江戸に住む鋳物師(いもじ)・木村将監安継、同三郎兵衛安信。 |
|
|
|
|
3.左の墓地奥には、高さ90 センチ大のおもむきある板碑 がある。(写真8.9)「慶長三 (1598)年二月十二日 称誉 妙讃信女」の刻字の上に梵 字が飾られている。a 4.本堂奥の墓地には、江戸 幕府の旗本坂本家の墓三基 が祀られている。(写真10)坂 本氏とは、代々深見村を治め た領主。天正19(1591)年に |
|
|
深見村に入ったのは二代貞次で、中央の墓が三代貞吉、左がその夫人、右端が四代重安の弟貞俊と思われる。 訪れた4月8日はお花祭り。釈迦(しゃか)の誕生を祝う日で、本堂前では甘茶を奉仕していた。 掌(たなごころ)に乗る大きさのお釈迦さまの像が、右人差し指を天に伸ばして立ち、甘茶の注ぎを受けていらっしゃる。四柱で支えられた天蓋(てんがい)を、ツバキなどの花がこんもりと蔽(おお)っていた。 寺に南接して、古い社がある。「相模国十三座之内深見神社」という社号石標(写真11)の立つ深見神社(ふかみじんじゃ)である。(写真12.13) |
■3 堰と用水
|
仏導寺と深見神社の建つ崖(がけ)の高みを東へ降りると、境川まで平地が広がっている。ここ要石地
区は今でこそ住宅地のように変わっているが、つい前までは田が広がっていた。一段高い丘の端に代々 住まう青木稔さんは、境川を越えて水田を渡る涼しい「巽(たつみ)の風」を思い出すという。 氏の話によると、そのころ用水は相鉄線鉄橋少し上流の堰(せき)から引いていた。堰からわずかな下り
勾配(こうばい)でアゲボリ(揚げ堀)が設けられていた。アゲボリは、丘の縁にそって南へ南へと刻まれて いた。全農家が利用する用水であるだけに、堀と堰の維持強化は農家にとって大切であった。取り決めた 日取りに全村民総出でホリサライ(堀浚(さら)い)をし、秋にはセキバライ(堰払い)をして取水をやめ、また 春になると堰造りするのが、村の年中行事だった。堰とは簡単な工作物で、橋構造のものに柱を数本川中 に立て、これに板を添えて水を堰くのである。橋構造の工作物を常設するまでは、福田(ふくだ)など近くの 村と同様に、土砂を俵に詰めて川中に投入したとか。取水口や堰の周辺はしっかりと堤を造り固めるのが 要諦(ようてい)であるから、土砂や竹木を使った土木工事が基本であった。土砂は近くの崖を崩して採って いた。要石では、仏導寺の丘の東辺がこのドトリバ(土採り場)であった。 大正8年だったとか、春、堰普請に取り掛かっていた。その最中にドトリバから骨、壷(つぼ)、甕(かめ)が
多く掘り出されて、村中大騒ぎになったことがある。壼などは大和小学校に保管を依頼したというが、今は 存否不明である。 このアゲボリあとを南へたどると「かしま二号公園」に出る。南西の一隅に建つ「開発記念碑」が土地区
画整理の苦心を伝えている。ここ一帯は相鉄が造成し、今では瀟洒(しょうしゃ)な住宅街となっている。昔 からの集落では根道がくねくねと縫っているのに対し、新住宅地の街路は直交し田の字の街を造ってい る。十字路に立つと、かつての田園風景が重ね焼きのように見えてくる。 |
■4 家の呼び名・イエナ
|
|
坂を西に少し上がると、古道が南北に走っ
ている。南に辿(たど)ると、左右に昔からの 家が大きく構えている。地元の方に伺うと、 家の名(イエナ)が付いている家が多い。 要石地区のイエナは、十八ほどである。そ
の由来はいろいろである。明治大正期の家 の仕事から名付けたものや、徳川時代に同 じ名を称し続けた家名であったり、集落内の 場所による呼び名もある。また主たる家との 関係で裏や表に当たる家の場所からの呼 び名もある。イエナを伝えによって解釈して みると、次の通りである。 |
イエナ | イエナの解釈 | |
サンゴクメ | 三石目 命により幕府の用をおこなっていて、 扶持(ふち)米を三石もらっていた家 | |
カサヤ | 笠(かさ)を造っていた家 後に販売だけをしていたという | |
アブラヤ | 油屋 菜種を絞って油を採る商(あきな)いの家 | |
トーフヤ | 豆腐の製造販売する家 | |
ナカムラ・ナカヤ | 集落の中心地にある家 | |
セド | 本家(キヘーサマ)の裏の位置にある家 | |
ムケー | 本家の向かい(ムケー)にある家 | |
メー | 本家の前(マエ)にある家 | |
オキ | 本家から遠く離れた家 | |
ゴロベーサマ | 先代から使われてきた名 | |
セーべーサマ | 先代から使われてきた名 | |
キヘーサマ | 先代から使われてきた名 | |
デンベーサマ | 先代から使われてきた名 | |
テンダイ | 天台? 天代? 台地の上の家 名主 | |
シンタク | 新宅 分家 別家 | |
ミセ | 雑貨屋(食料衣料品など) |
富沢美晴さんは、今も電話を受けるとき、「セーべーサマだよ」とイエナで応答することがある。「サマ」もイエナの
名称であるので、自分を「セーべーサマ」と表現するのだが・・・と、苦笑される。 |
■5 今、境橋 昔、番田橋
|
要石地区の南端は主要地方道横浜・厚木線付近である。この地方道が境川を境橋で越している。
昭和9年、不況続きの世の中だった。だから厚木街道沿いに県道を工事するとは、有り難かった。当地区
の農民たちはこぞって参加した。路盤を掘削したりトロッコを押して土砂運搬したり、土木仕事に取り組ん だ。境橋も架橋した。施工が終わると、県道近くのシャカンドー(釈迦堂)跡で祝いの席が設けられたと、記 憶する人もいる。 境川には、それまでは小さな「番田(ばんだ)」橋が架かっていた。「橋のたもとに幕府の巡査に当たる者
が住んでいて番をしたので、番田と名付けたのだ」と、テンダイの青木利光さんはいわれる。 「番田」には、深見村の領主に納める米蔵が数棟建っていたという。この蔵の前庭で年貢米を「斗(と)立
(だ)て」をし、俵詰めして蔵の奥に積み上げたものだ。年貢米1俵とは、3斗5升入りであったが、実際は2升 を上乗せして3斗7升を俵に詰めるのだった。この2升を加えることを「斗立てをする」といった。深見村の名 主・組頭・百姓代の村役3人が立ち会う、農民にとっても米1粒たりとも疎(おろそ)かにできない厳正な業務 であった。 番田とは、江戸移送の前の年貢を収納管理し、蔵の警護と村の平安を維持するのが役割であったのだ
ろう。 |
■6 テンダイ坂と半鐘
|
番田のあった橋のたもとから昔の道を辿って坂を上ると、 急傾斜の崖にそって道は続く。テンダイ坂という。(写真14) テンダイ坂の上部に林がある。その奥の、天にでも上がる 位置に豪壮な名主の舘(やかた)が建っていた。このテンダ イから境川を臨むと、北から南へ水田が広がり、番田橋近く に番田の米蔵が見えたに相違ない。 今、テンダイ坂の下の四辻に、2階造りの小屋が建ってい る。軒下に赤灯が下がり、鎧戸(よろいど)には「大和市消防 団第三分団三班」とある。裏に10メートルはある櫓(やぐら) |
が屹立(きつりつ)し、先端には半鐘が下がる。 (写真15.16)
長雨のやっと上がったこの日、気温は昇り、鳥も樹木も万物が春の余情の最中に浸っている。そして現 代の「番田」の半鐘も、中空でゆらりと、春機嫌の風情ではある。 小さな辻風(つじかぜ)がテンダイ坂を上っていく。テンダイの屋敷から路(みち)へ差し出た桜木から散る花 びらが、つむじに巻かれて揚がっていく。ヒヨドリがキーッキーーッと鋭く啼(な)き、桜が散る。 |
デーデーボッボー。遠くの、くぐもり声
はヤマバト。これにも和して、花が舞う。 春は、この街を、いま、通り過ぎようとしてい る。 集落・要石は、時代の襞(ひだ)を重ねて
静まっている。深い時の流れが刻み込んで きた美しい襞は、まるで境川の流れとあらが う石の群れの姿でもある。鹿島橋下の、春 の瀬音が聴(き)こえてくる。 |
※無断で転載・転用することはご遠慮ください。ページを印刷し、資料等と して複数の第3者に配布したい場合は、事前にメールでご相談ください |