◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
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「お銀さま」は、相州高座郡早川村(現綾瀬市)の人でした。三州田原藩の第11代藩
主三宅備前守康友の侍女となって、崋山の主である友信を出産しましたが、直後に実 母が急逝し、故郷に戻っていました。 その頃崋山は14歳、お銀さまは21歳でした。25年後、そのお銀さまを訪ねて大山道
を行く崋山の旅は、主のためだけでなく、崋山自身にとって慕情の旅だったことでしょ う。下鶴間村の大山道は、『新編相模国風土記稿』に道幅四間(7.2メートル)とあり、今 も昔もほぼ同じ幅です。しかし、道中の風景は大きく異なります。 今の鶴間駅の近くで は、「鶴間の原」で畑に精を出す農民に出合い、丁寧に桑の名「柘」「桑」や、養蚕によ い種類を教えてもらったことが書かれています。 また、「鶴間原」は柴胡(さいこ)が多く、「柴胡の原」とも呼ぶことと、晴れているので、
箱根・足柄・長尾・丹沢・津久井の山々がいよいよ近くに見える、という記述もあります。 「柴胡」とは、いまはほとんど見られなくなってしまった植物の名前です。背丈は2尺ほ
どで、枝先に薄い黄ばんだ粟粒ほどの花群をつけ、清楚さを感じさせる野草です。 昭和2年の絵図(『神中鉄道沿線案内図』)を見ると、「大和駅」と「相模大塚駅」の間
に柴胡ノ原とあります。崋山が見たであろう、腰下くらいの丈の柴胡が見渡す広野に一 面に広がっている風景は、この頃までは見られていたようですが、柴胡を野草として見 ることができない今となっては幻の風景です。 |
大和市西端、今は西鶴寺と大和斎場が林の中に建っているあたりが「水の牛王(ごお
う)」の地、下鶴間村・上草柳村(両村現大和市)・栗原村(現座間市)の三村の境だった ようです。 ちょうど崋山がこの地を訪れた頃に編纂された地誌調査報告書『新編相模国風土記
稿』には「水牛王」の地名について下記のような記述が見られます。 1.「三都乃古和宇」(みつのこわう)と読む。 2.下鶴間村では三の郷(ごう)をなまったのだという。
3.上草柳村では、熊野の牛王が流れ来たことがあってこう唱える。
「三つの郷」(村)という解釈よりも、「水の郷」のほうが妥当な解釈のようです。三か村
のはずれで、上草柳から下草柳にかけて南へ流れる引地川の源流であり、水の溜まる 沼もあり「水の窪」だからともいえます。 |
国道246号線は、江戸時代の大山道(矢倉沢往還)に近いものの、東京青山通りや
玉川通り、川崎・横浜・町田を抜ける辺りはあまり原形を残していません。それに比べ ると、大和市を横切る部分はほぼ完全に昔ながらの道筋です。 大和市内の大山道は下鶴間・鶴林寺西の坂上の「まんじゅう屋」から小園の北端「赤
坂」までの7キロは、左右にやや揺れるくらいで、南西を指すコンパスのようにまっすぐ 伸びています。246号線はこれに沿って作られました。しかし、「水の牛王」からは南に それて曲がっています。これは、第二次大戦時に広大な高座海軍工廠が設けられ、迂 回せざるを得なかったからです。 現在、西鶴寺前の大山道をたどると、雑木林に入りそして大和厚木バイパスにとざさ
れてしまいます。 相鉄線「さがみ野駅」を左手に見て、「かしわ台駅」方向に進むと、にぎやかな商店の
建て込んだ交差点「大塚本町」に出ます。下鶴間村・上草柳村・栗原村の載る大きな 台地を横断してきた大山道は、尾根沿いに高度を下げて大塚に至ります。仮に大塚 で目久尻川の谷に下りると、谷の屈曲に左右された悪路になってしまいます。これを嫌 ったのです。 大塚はかつては大きな塚があった所です。源頼朝時代にあった激戦の戦死者を葬っ
た塚だったそうですが、今は墓標も塚の姿も見ることはできません。 |
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「かしわ台駅」手前の踏み切りを北へ越えた三角辻には道祖神を見ることができま
す。さらに進んだ先に、246号線に向かって立つ小さな石像の群れもあります。さらに 国道を離れた草の中の小径には珍しい庚申(こうしん)塔もあります。側面に『西 あつ ぎ 大山 東 江戸 道』と刻んであり、いかにも江戸時代の大山道を思わせる庚申塔 です。ですが、246号線からは外れており、この小径が大山道だったのかどうかは定か |
ではありません。 このような道をたどり、やがて崋山は分岐点
「赤坂」(右写真)に出ます。 道中でお銀さまの消息を尋ねながら、この赤坂で左南方へ大
山道を逸れて、いよいよお銀さまの住んでいた小園村へ向かい ます。 古東海道(左下写真)といわれている竹藪に続く道を探り、高
見から南の村落を見下ろす子の社に至ります。このあたりで、 崋山も記録している延命地蔵堂(バス停「小園団地入口」・右下 写真)を見つけることができます。明治期までお堂は寺子屋とし て近くの児童教育に使われていたそうです。 |
小園村略図(左:オリジナル/右:現代語訳) |
そこからお銀さまのもとまではもうすぐです。
崋山は、妖しい洞穴を潜ると、そこには伝説の地武陵桃源郷のような世界が広がって
いた、先代の子孫たちが現世とは関係なく幸せに暮らしている風情であった、と記して います。この世を離れた桃源郷のような村里で、崋山はお銀さまと再会を果たしまし た。 25年の歳月は、共に容貌を変えてはいるが、しかし確かめあって互いを認めるのにそ
う時間は掛からなかった、と言います。 崋山は、隣の早川村から駆けつけた実父の幾右衛門も交え、お銀さまとのランチを
堪能した後、夕方には村人に見送られて小園村を後にします。 |
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お銀さまの墓(下写真)は、延命地蔵堂前のバス停から一つ先の「新橋」にあ
ります。目久尻川に近い小高い丘に、婚家の一族たちの墓石が草地を囲んで並 んでおり、その中のひとつがお銀さまの墓です。墓前には竹筒とガラスの小さ な空きビンがある。中にだれが挿したか野の草が揺れて、冷たい墓石の上には 8,9枚の銭が丁寧に置かれています。 |
崋山が大和周辺を旅したのは、画家としての道を放棄せざるをえなくなったころで
す。やがて海外諸勢力に対する知識を得て大事に着手していくことになりますが、そ の間の短い平穏な時の旅でした。幕政批判を問われて囚われ、蟄居の内に自決する のはこの「游相の旅」10年後のことです。 崋山が旅した大山道はその名の通り、人々が救いを求めて大山に詣でるための街道
でした。さらにはその先にある富士山に参詣する道でもあったのです。旅人の目の前 には、常にこの両山が美しくそびえていたことでしょう。 |
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