◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
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『游相(ゆうそう)日記』は天保2(1831)
年に右の肖像画(筆:椿椿山)の渡辺 崋山が神奈川県方面を5日間に渡っ て旅した時「日記帳」のようなもので す。 崋山が当時仕えていた主(あるじ)は
藩主と侍女の間の子でした。崋山は 主の依頼を受け、行方のわからない 主の母親の消息を尋ねるため、その 父親の住む小園村・早川村(現綾瀬 市)へと向かったのです。 |
崋山が江戸から相模へ向かうために利用した街道は「大山道」です。
ほぼ現在の国道246号線がこれにあたります。しかし、江戸から近すぎるせいなの か、江戸時代の大山道の風景や人物を描いた文献はほとんど見当たりません。 また大和市市域を記録した明治時代以前の紀行文スタイルのものはこの『游相 日記』一点しかなく、歴史的に見ても非常に貴重な文献です。 |
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9月20日、崋山は高木氏梧庵を伴って相州・
厚木に旅立ちます。途中、有力な俳諧の宗匠 を訪ねて酒店に誘い、道中の詳しい道筋や宿 の紹介を願い、別れを惜しみました。 右の写真はその時に連れの梧庵が一首読
んだときの様子をつづったページです。左に スラリと縦長に煙管を描いているところが、 |
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なんとも粋な感じがします。『游相日記』にはこの煙管に始まって20ものスケッチが散り
ばめられていますし、歌・発句などもこの梧庵の一首のように作者自身が筆をとって書 き付けたものが7作もあります。これらが崋山の優れた文章とともに、『游相日記』をいっ そう多彩な記録書にしています。 |
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崋山たち2人は高坐川(今の境川)と揚げ
堀に架かる橋を渡って、相州下鶴間村宿 へ入ります。そこで左の絵にある、大きな 入母屋(いりもや)の茅葺(かやぶ)き屋根を のせた家『まんちう【まんじゅう】屋に宿を 取ります。 下鶴間宿は、当時の江戸の文献の中に
はさも賑わいのある村のように描かれてい るものもあったようですが、崋山の目には 「はなはだ世を離れた所」、つまりとても寂 しい村と映ったようです。 |
文献によれば、当時の下鶴間村宿は、「人馬の継立」をする、公私の旅人のために駅
馬や人夫を常時備えておく所だったそうです。 店も並び、宿泊する旅籠も多かったとか。境川を渡り蜂須賀家を左に見て過 ぎると、旧鎌倉道を挟んで名主を勤めた伊沢家と瀬沼家が建ち並ぶ、といった 村でした。それでも、江戸に暮らす崋山の目から見れば、寂しい所だったのか もしれません。 |
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旅籠「まんじゅう屋」は、「若夫婦 は婚礼に行って不在なので、湯な どは用意していない、食事も貧しい が、それでよろしかったら泊まってい ってください」と言いましたが、歩き つかれた崋山たちはここに宿を取り ました。実際は「酒も食事もうまい」 と、崋山はこの宿には満足したよう です。 |
この旅籠は関東大震災のとき
に傾いたが、しばらくは大切に 手入れしていたそうです。 当時は南向きだったが、その 後西向きに建て直し、今また南 向きの屋敷を新築しており、昔 の面影はありません。 右図は旅籠としての機能を残 していたころを記憶している人 から聞き取って書いた「まんじゅ う屋」の略図です。また、この家 には江戸時代に旅籠を営んで いた「証拠」とも言える品が残っ ています。 |
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それが「く組」の札(左写真)です。
これは有名な江戸火消し、「く組」の定宿の札で、「天保十一年」という 裏書も見られます。「く組」は毎年夏に大山詣をするのが恒例で、その時 の定宿としてこの「まんじゅう屋」を利用していたようです。 まんじゅう屋を後にし、崋山たちの旅は綾瀬市方面に向かって続きま
す。 やがて旅の目的であった、主の母親とも劇的な対面を果たすことにな
りますが、それについては次の項にゆずることにします。 |
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