◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
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■1 柳田国男の歩いた道
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民俗学者・柳田国男の著書『水曜手帖(てちょう)』は、「深見(ふかみ)」から文が始ま
る。 『深見という村は、現在は相州高座郡大和村の一大字であるが、『和名鈔』(わみょう しょう)にも見えている古い郷(ごう)で、境川の岸に沿うて長さが一里近くもある。私は昔 の郷の中心はどの辺かということと、以前の鎌倉道は川のどちら側を通っていたろう か ということを知りたいために、今度は小田急線の鶴間の停留所から下りて、東端の 一之関という部落に入ってみた。』 柳田国男が立った、大和市東辺の「一ノ関」集落(略図A地点)に境川から入って突き
当たる三差路には道祖神が路傍に立っている。 |
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男女の像(写真1・2・3)の道祖神は、往来の車両が跳ね掛ける土砂のせいか、土汚
れがひどい。 柳田国男は付近の景観を『四五町歩の稲田』と記したが、今は東名高速道路が掠め
通り、その広さは実感できない。 境川に架かる橋が古来有名な「山田橋」(略図B)だが、現在親柱に掲げられている 銘版は「上瀬谷橋」(写真4)となっている。山田橋の名は消えてしまった。 |
その経緯とは、
・境川に架かる橋の施工・・・両市が費用を分担 ・橋施工の担当・・・上流から順に交互分担 ・山田橋の担当・・・横浜市 ・改修後の名称・・・改修担当の市が決定 平成元年に新橋が完成し、横浜市側の提案に大和 市が合意し「上瀬谷橋」と命名されたのである。 |
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境川に迫(せ)り出した城山(=一ノ関深見城・略図 C)は、15世紀半ば、山田伊賀守(いがのかみ)入道藤 原朝臣経光(つねみつ)の居城であったとか。当時は、 現大和市の一部と横浜市瀬谷が一つの「山之内荘世 野の郷」であったという。 妙光寺(みょうこうじ)の鐘楼には、因縁の鐘(写真5) が吊されている。経光が賭(か)け碁に勝って賭けてい た万年寺(まんねんじ)の鐘を得て、これを妙光寺へ寄 進したと伝えられている。その万年寺(田園都市線田 奈駅北)は廃寺になり今はない。 |
経光は牢場(ろうば)も造り(写真6「牢場坂」)、川原には長い馬場を設けて戦闘訓練
をしたという。 当時の境川は一ノ関の南でよく氾濫し、沼地を作っていた。深見城はこれを自然の堀 として利用した。沼のほとりに10軒ばかりの百姓を移住させ、田を耕作して戦時の食糧 に役立てようとした。その末裔が今日の農家の起源の一つでもある。 深見城は水に囲まれた要害。そこへ武将たちは始終入城した。そんなことから境川
を渡る橋を近隣の人々は「山田橋」と呼ぶようになった。「山田橋」は、境川両岸の歴史 に密接にからむ名称であった。(写真7 橋の背景は深見城跡) |
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集落の中にあるいくつかの坂にはだれが付けたかわからないが、古くからの呼び名
がある。「大坂」(略図D・写真8)、その先を左へ上がると「小坂」、一本北の坂は「谷戸 坂(やどざか)」(写真9)、ずっと南は「四万坂(しまんざか)」、北の城山には「天竺坂(て んじくざか)」。 坂ひとつひとつには違う表情があり、だから固有の名前が付いている。地元の人々に
は、その名は馴染(なじ)んだものになっている。 |
丸く彫った穏やかな地蔵さま(略図D・写真10)。80センチはある石像は赤い頭巾(ず
きん)を被(かぶ)り前掛けをして、錦(にしき)のちゃんちゃんこを着ていらっしゃる。千羽 鶴(せんばづる)が下がって野の花がガラス瓶に挿してある。足元に小石(写真11)が積 んであるのは、昔からの信心からであろうか。治癒(ちゆ)を願って小石を戴(いただ)い て帰り、病が治ると小石を増やして地蔵に捧(ささ)げる風習である。 周囲の文字から、相州高座郡深見村一ノ関講中が享保3(1718)年霜月13日に像立
したものと分かる。 一ノ関集落は急斜面をくねりながら、3本、4本と下る坂があり、どの小道にも道祖神
や地蔵さまやお稲荷さんが祀られている。(略図参照) |
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天王さまと地元では呼ばれている八雲神社(略図E・写真12)が谷戸坂にある。本
殿脇(わき)、椿(つばき)などの木立の許(もと)に石仏たちが、鉤(かぎ)の手に曲がってう ずくまっている。その特徴を強いて書くと次の通り。 (番号は向かって右から左にかけての順序・写真13参照)
A 庚申(こうしん)塔(写真14)青面金剛(しょうめんこんごう)立像。大和市で最古の青面
金剛像。天和4(1684)年。 B 庚申塔(写真15)青面金剛立像で、日と月が象(かたど)られている。
C 庚申塔(写真16)下にはミザル・キカザル・イワザルの三猿がうずくまっている。
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D 庚申塔(写真17)青面金剛立像 Bに似た像。
E 庚申塔(写真18)大正9年11月吉日に一ノ関講中によって建てられた新しい塔。
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F 地神(ちじん)塔(写真19)文字『地神塔』と表記された文政11(1828)年8月像立のも
の。 G 石祠(せきし)(写真20)大和市域では最古の石祠。明和3(1766)年7月吉日に造られ
た祠。 |
集落では、お互いをイエナで呼び合う。由来
は家業にまつわるものや隣同士の位置からくる ものなど、さまざまである(略図参照)。 「シモ」(略図14)のイエナを持つ、小林峯太郎
家では数体の石仏を祀(まつ)っていた。屋敷東 の坂の登り鼻(略図F・写真21)である。 ブロックで囲まれて、石仏たちが安置されてい
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る。中には、寛延3(1750)年に像立した弁財天が五 輪塔などと身を寄せ合っている。この石群れの中に 奇妙な石塊がある。傷んだ五輪塔の上部に、2個の 球体を繋(つな)いだ石塊が載せてある。太い針金 で括り上げられている。石は黒々と焼け焦げている (写真22)。 この地域では、小正月に火祭りがあ る。道祖神など石の神を中にして、ご用済みのお札 (ふだ)や門松や注連縄(しめなわ)を積み上げて火 を放つ、伝統行事である。その火中の神としてこの 石塊は役を果たしているのだ。この括られた神はセ ーノカミと呼ばれ、セートヤキの折に火中に投じる神 だという。 |
セートヤキは下講中(略図11〜16)、上講
中(略図1〜10)という集落の中のブロックご とに行われている。この祭りが終わると、真っ 黒に焼けたセーノカミは当番の家2軒が持ち 帰り、丁重に祀る習わしだ。 2002年1月14日(月)のセートヤキの場所は
八雲神社境内(写真23)。何代もの間続け てきた田の中では、セートヤキはもう出来な い。 |
東名高速が田圃(たんぼ)を抜けるようになり、田の小径(こみち)のアスファルト舗装が
火で溶けてしまうからだ。 セートヤキでは上新粉で作った団子を木枝につけて、あぶったりもする(写真24)。焦 がさないで上手に焼くのは見た目よりずっと難しい。 正月飾りの注連縄・門松・達磨(だるま)などを火にくべると炎が勢い良く上がる。
以前は上下2講が2か所で行っていたが、今はこの八雲神社1か所になり、稲荷講も
春秋2回だったのが春2月の稲荷講だけになった。 伝統ある講中の行事も消えて行っ てしまうのだろうか。 火中からは針金で括った何代目かのセーノカミ(写真25)が取り出された。
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