その6:ダイジェスト版



深見地区坊の窪

◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆


■1 岩船地蔵
坊の窪情景  
岩船地蔵堂祀1
岩船地蔵堂本像
 岩船地蔵とは、ほとんどが享保年間に短期間で広がった珍しい地蔵である。時の第
八代将軍徳川吉宗が岩船地蔵の生まれ変わりの人とされ、将軍にあやかった岩船地
蔵信仰が大流行した。

 大和市深見地区坊ノ窪(くぼ)「岩船地蔵尊」(写真3)では今でも「地蔵祀り」(写真2、4)
が行われている。
岩船地蔵堂祀り2
 堂右手の石塔「堅牢地神(けんろうじしん)」(写真
5)には、「風雨順持 五穀来熟」「弘化三年丙午八
月社日」「講中中深見村」と彫ってある。1846年に
農作物の豊作を願って土地の神を祀(まつ)った石
碑で、当地を「中深見村」とも呼んでいた。

  お堂前の道は30年前までは土砂交じりで、数十
本の大ケヤキが立ち並び、往来も少なく、出会って
も30軒ほどの集落の顔見知りばかりであったとか。

だから念仏講では、通りに筵(むしろ)を延べて念仏
を唱えたし、その場で飲食を楽しんだという。
  堂の道際に「奉納岩船地蔵尊平成九年三月吉日
念仏講中」と白布に大書した幟がひるがえり、その先端
でサカキの枝葉が揺れている。堂内の岩船地蔵は、刻
まれた文字から、享保9(1724)年8月に深見村の念仏
講中が造ったことが分かる。

 この村でも「流行神(はやりがみ)」「岩船地蔵」を勧請
(かんじょう)し、坊ノ窪にお堂を建てた。流行の波は享和
の末には衰え、流行神の姿は薄れていった。しかし当
地では「流行」には終わらさなかった。深見村坊ノ窪で
は念仏講中を組み、地蔵を念仏の本尊として代々継ぎ
続けてきたのだ。
 岩船地蔵堂横石碑

■2 深見地区坊ノ窪
 深見4集落略図
 小田急江ノ島線と相模鉄道の交差する大和(やまと)駅から東に歩くと、どうしても境
川に突き当たる。

 境川は北から南に流れて、相模湾に注ぐ川である。川は大和市側では崖(がけ)下を
くねり、対岸の横浜市瀬谷区の方は平坦(へいたん)な地形を広々とみせている。図の
左方は丘陵の上面で、右端の境川へかけて、集落が二重、三重の列を造っている。大
和駅の東に当たるのが深見地区。深見は集落(一ノ関・島ヶ関・島津・諏訪・森下・坊ノ
窪・入村・要石・宮下・宮ノ上・大塚戸など)が南北に並んでいて、その中央がこの坊ノ
窪集落である。

 集落の通りや屋敷隅のあちこちに石の神や仏の姿を見掛け、つい気が向く。男女2
体が並ぶ双体道祖神、石の小さな祠(ほこら)、 「猿田彦大神」と大書した石塔も路傍
に立っている。中でもよく祀られているのは「お稲荷さん」と「お地蔵さん」である。

 「お……さん」が付くのは、稲荷と地蔵だけ。稲荷と地蔵はとりわけ親密な信仰対象
であるからだろう。
 
■3 坊ノ窪のイエナ
 坊ノ窪は30軒ほどで、道行く人はだれでもが知り合いであった。同姓の家が多いの
で、家の名(イエナ)で呼び合うのが普通であった。イエナの一部を抜き出し略図にし

てみた。
 シタハズレとは、坊ノ窪集落の北端で丘の下にある家。
 丘の上の家は、ウワッパズレ。
 ショーユヤ・クルマヤサン・ゲタヤ・コーヤは、醤油(しょうゆ)屋・車屋・下駄(げた)屋・
紺屋が家業の時代でもあったのだろう。
 トモエモサマは友右衛門、モザエムサマは茂左衛門か門左衛門、エースケサマは
栄助、デンザエモンは伝左衛門。かつて大事に代々使ってきたイエナであるに違い
ない。
 ニイヤは新家・新屋で、新宅・分家のこと。インキョは隠居の家、セドは裏に当たる背
戸の家、ヤマンネは山手の根に位置する家をさすと聞く。

■4 お稲荷さんと秋葉社
  略図(図6)中央下の岩船地蔵から北へ屋敷を左右に小道を行くと、ショーユヤ、シ
タハズレの屋敷前に出る。広い交差地点には島状の空地があり、ここに石の神々が並
んでいる。(写真8、9、10)
 深見石塔群
深見石塔群
深見双体道祖
  西へ木の間を縫って上がっていくと、林間に妙法
講中の稲荷がポツンと置いてある。(写真11)いまは
戸や窓は塞(ふさ)いであるが、初午の日に家でお稲
荷さんへ油揚げや赤飯を供え、ここで念仏を唱える
儀式は今も続いている。

 丘の上に出て南北に走る鎌倉古道を左に取ると、
高塀が長く続き、その基礎を造っている石がズラッと
古道に面している。(写真12)その大小の石が石仏に
もみえてくる。塀に埋め込まれてもう何10年になるの
だろう。
 左手に火難を防ぐ秋葉社と並んで、「正一位中
丸稲荷大明神」(写真13)が座している。この稲荷は
中丸イッケの浄土宗の家10軒ほどで祀っている。
中丸家でお稲荷さんを祀ったのは古い。中丸正義
さん(ヤマンネ)によると、お稲荷さんを勧請したの
は江戸時代に遡(さかのぼ)るという。
 道端の”石像”たち
 お堂を開錠してもらった。(写真14)不意を打
たれた。覗(のぞ)き込もうとした目に飛び込ん
できたのは、赤い鳥居の奥にズラッと並ぶ、白
いキツネ30体であった。

 お稲荷さんには作神(つくりがみ)として、田
畑耕作の期間は農地を守り、秋は山の神に帰
っていくという、「神の春秋去来」の考えがあ
る。今も続く初午の祭りは、山から神を迎える
大切な行事である。
 
中丸稲荷内部
 中丸稲荷の奥に秋葉社が建ってい
る。 秋葉神社(本社は静岡県の天竜
川中流)の三尺坊大権現は、 天狗(て
んぐ)のように飛翔(ひしょう)して鎮火す
る業にすぐれていたといい、火事を恐
れた江戸時代に流行神として広がっ
た。坊ノ窪でも有志が秋葉講を組み、
分社を建てて祀り、毎年代参人を選

んで参拝に行き、護符を受けてきて
いた。 
中丸稲荷
 文書によれば、明治期にも毎年のように代参に出ている。講中は50銭ずつ出し合っ
て代参の費用に充て、秋葉神社では1円を納めて護符をいただいてきたとある。

■5 即身成仏・らいげんさん
 奇妙なことを聞いた。
 坊ノ窪に「らいげんさん」がいた。庵(いおり)を結んで耕作に勉(つと)める一人もので、
念仏を日ごろ唱える僧であった。晩年、らいげんさんは死を予感して竪穴(たてあな)を
掘って、あたりの人に依頼した。「穴中で鐘を叩(たた)いて念仏を唱えているから、鐘
がやんだら、この穴を埋めてほしい」

 念願通りに、らいげんさんは生をまっとうした。肉身のままで悟りを開いて仏にな
る・・・即身成仏されたのだ。そこで、村人たちは石を刻んで供養したという。
  後年、22枚の板碑など貴重なものと、小さな仏を発掘
した。だが月日の流れは無常・・・。板碑一枚(南北朝時代
の逸品)は国立博物館に保存されているが、外は散逸し
て、行方知らずとなってしまった。

 今、ヤマンネ宅の庭奥に五輪塔と石仏(写真15)がある。
当時発掘した石仏だそうで、中丸正義さんは水と花を欠
かさずに祀っておられる。拝ませていただいたとき、この
風化した痛ましい石仏がらいげんさんかも知れぬと、心を
よぎった。
 

■6 八坂神社・新井先生碑・境川改修記念碑
八坂神社
新井先生碑全景
新井先生碑
 坊ノ窪の最南部、入村との境には、「八坂神社」(写真16)が鎮座している。
 北部のはずれ、森下集落との間には、「新井先生碑」(写真17、18)が暗い森中に立
っている。

 この地(深見2016)には深見学校が建てられていた。明治12年初代校長を務めたの
が、新井蔵之助である。当時、上等・下等の4年ずつの修業年限であり、この学校に通
ったのは、要石・入村・坊ノ窪・島津・一ノ関の集落の子たちだ。この碑を建てたのは大
正7年で、深見学校で学んだ人たちの力によるという。

深瀬橋
 東を流れる境川に「深瀬橋」(写真19)が架か
っている。深見と横浜市瀬谷区を結んでいるか
ら「深瀬」と呼ばれているのだろう。東へ渡って
すぐ目に付くのが、3メートルもあろうか、高い石
塔「境川改修ならびに土地改良事業竣工記念
碑」(写真20、21、22)である。

『……古来この川は川幅狭く且屈曲甚しく流域の耕
地は僅かの降雨にも氾濫、湛水数日に及び其の被
害は甚大なるものがあり而も之を灌漑に利用する手
段、施設に並々ならぬ苦労があった。年毎の旱害
の面積も又多く我等の父祖は宿命として泣く以外に
手段はなかった。……』
境川改修記念碑
 
境川改修工事碑
 昭和28年、蹶起(けっき)団結して嘆願陳情を開
始し、取水堰(せき)の整備、農道・用排水路の整
備、暗渠(あんきょ)排水・機械揚水施設を設置する
など、完成したのは同44年暮れであった。

 大和市深見地区坊ノ窪集落を散策した小半日、
なぜか無性に楽しかった。坊ノ窪の四囲を巡って、
八坂神社・新井先生碑・境川改修記念碑を拝見し
た。集落内では、お稲荷さん・お地蔵さん、道祖
神・小祠に出逢(であ)った。お家の庭には、屋敷
神・稲荷社が多く、お墓にも小祠が大切にされてい
る地区だ。大和市深見地区の坊ノ窪には、石に刻
まれた神仏が住まっているのだ、祈りの絶えない人
里でもあるのだ、そんな思いに捕らわれてきた。
ふるさと原点を見失っている自分に、突然、気付かさ
れた。無性になにかしなければと、気忙しく前屈みに
坂道を上った。

 これからも歩き神の誘いのままに集落を散策して、
自分を見詰めることを、心習いとしたい・・・、境川を背
に坊ノ窪の坂をのぼり上り、考えていた。
 

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