◆◆ 文と写真と地図/内藤 敏男 ◆◆
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■1 柳田国男の歩いた道
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一冊、本を抱いて、大和市東辺の「一ノ関」集落へ入っていった。本とは民俗学者・柳田国男の著書『水
曜手帖(てちょう)』である。これに惹かれたのは、「深見(ふかみ)」で文が始まるからでもある。その文頭を 読むと、柳田国男の姿が彷彿としてくる。 『深見という村は、現在は相州高座郡大和村の一大字であるが、『和名鈔』(わみょうしょう)にも見えてい
る古い郷(ごう)で、境川の岸に沿うて長さが一里近くもある。私は昔の郷の中心はどの辺かということと、 以前の鎌倉道は川のどちら側を通っていたろうかということを知りたいために、今度は小田急線の鶴間の 停留所から下りて、東端の一之関という部落に入ってみた。川のへりに四五町歩の稲田があって、小さな 支流が民家との境を流れ、その岸を南北に路(みち)が通じ、石橋が架かり、その角の屋敷の端に男女双 体を刻した道祖神が二つ並んで立っている。一つは寛延二年のものでまん中に割れ目があり、今一つは 最近昭和十五年三月のもので、男神の袴(はかま)を青に、女神の裳(もすそ)を黄色に塗っている。その後 に古い五輪が四つ、これは古風だから立って熟視していると、そこへ五十ばかりの男が自転車で通りかか った。何をしているのかという顔をするから、私は鎌倉時代の道路が、川のどちら側を通っていたかを考え ているのだと告白したところ、それはわかっている、この道がそうだといと無造作に教えてくれた。』 私は柳田国男が立った地点(略図A地点)にいる。境川から集落に入って突き当たる三差路で、道祖神
が路傍に立っている。 |
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男女の像(写真1・2・3)の道祖神は、往来の車両が跳ね掛ける土砂のせいか、土汚れがひどい。石像
を拭うと、文字がはっきりと浮かび上がった。 昭和十五年五月」 柳田は5月を3月と見誤っている。メモからの写し間違いだろうか。
「深見」の文は『民間伝承』昭和15年11月1日号に掲載されている。この年5月に道祖神が誕生している
から、5月から秋にかけて来訪し文をまとめたことになる。 男神、女神の衣裳を青や黄色に塗った様子はまったく今では分からない。それどころか、上部が欠けて
いて、かけら4〜5片を載せている。神のお顔が無惨である。 柳田が書き留めているもう一つの『まん中に割れ目が』あるという寛延2年の双体道祖神はここにはなく、
集落中を捜してみたが行方は分からない。この男女2体の野仏は、やがていくつかの岩塊に成り果てたの か。そして世界大戦を前に誕生したこの現存の顔を傷めた双体道祖神の行く末は、いかがであろうや。 柳田国男の記録した『四五町歩の稲田』には、今は東名高速道路が掠(かす)め通り、その広さは実感で
きない。文中の『小さな支流』とは、かつての用水堀のことであろう。地名「一ノ関」とは「第一の堰(せき)」 のこと。深見集落を流れる境川の上流地点に堰があり、堰に始まる用水堀は田地を縦横に走っていた。古 い農家で聞くと、「下道(したみち)」と呼んでいる道は拡張されたが、道祖神のある場所はそう変わっては いないという。変わったのは、野仏の前を流れていた小川が消えて、行き交う車が多くなったことだ。 |
■2 「山田橋」が消えた!
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車道南側には申し訳程度の白線が歩道を示している。黄色く末
枯れた草が道になだれて、歩行者を車道に追い出す。自動車の エンジン音に気遣いながら、境川へ出た。に向かった。 川に架かる橋が古来有名な「山田橋」(略図B)。しかし親柱に 掲げた銘版には「上瀬谷橋」(写真4)とある。山田橋の名は消え てしまった。 橋を渡り、横浜市瀬谷地区の古老に聞いて、意外な改名の事
実に胸を突かれる。 |
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その経緯とは、
・境川に架かる橋の施工・・・両市が費用を分担 ・橋施工の担当・・・上流から順に交互分担
・山田橋の担当・・・横浜市
・改修後の名称・・・改修担当の市が決定
平成元年に新橋が完成し、横浜市側の提案に大和市が合意し「上瀬谷橋」と命名されたのである。
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■3 一ノ関深見城
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境川に迫(せ)り出した城山(=一ノ関深見城・略図C)は、15世紀半ば、山田伊賀守(いがのかみ)入道藤
原朝臣経光(つねみつ)の居城であったとか。当時は、現大和市の一部と横浜市瀬谷が一つの「山之内荘 |
世野の郷」であったという。 妙光寺(みょうこうじ)の鐘楼には、因縁
の鐘(写真5)が吊されている。経光が賭(か)け碁に勝って賭けて いた万年寺(まんねんじ)の鐘を得て、これを妙光寺へ寄進したと伝 えられている。万年寺(田園都市線田奈駅北)は廃寺になり今は ない。妙光寺は上瀬谷橋を横浜市側に渡って東南、瀬谷柏尾道 路のほとりに建つ。山田伊賀守経光は瀬谷郷に住んで、広い地域 を領していたのだ。 経光は屋敷を瀬谷に設け、一族の守り神に若宮八幡宮(はちま
んぐう)を勧請(かんじょう)して祀(まつ)り、周辺に武将たちを住まわ せた。巡らした堀跡が残っている。牢場(ろうば)も造り(写真6「牢 場坂」)、川原には長い馬場を設けて戦闘訓練をしたという。 |
瀬谷の古老の話では、境川は一ノ関の南でよく氾濫(はんらん)し、沼地を作っていた。深見城はこれを自
然の堀として利用した。 |
沼のほとりに10軒ばかりの百姓を移住させ、田を耕
作して戦時の食糧に役立てようとした。その末裔(まつ えい)が今日の農家の起源の一つでもある。 深見城は水に囲まれた要害。そこへ武将たちは始終
入城した。そんなことから境川を渡る橋を近隣の人々は 「山田橋」と呼ぶようになった。「山田橋」は、境川両岸 の歴史に密接にからむ名称であった。(写真7 橋の背 景は深見城跡) |
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石仏にしても橋名にしても、「歴史」が埋没して人の目から消
え去るきっかけは、実に単純なことで始まる。「昔」が埋没し ていく姿は悲しい。いったん埋没し淵に沈むと深い淵底から浮 かぶことなく、「時の流れ」に息絶えるしかないのだろうか。あ なたには風は見えない、しかし落ち葉の流れに、あなたは風 を見るはずだ。だれか「時の流れ」を見る手だてを教えて欲し い。 |
■4 谷戸坂・大坂・小坂
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急坂。なぜか、坂は上り下りする人の心をくすぐる。カーブして登っていく急坂は、人に思わぬ景色を展開
して見せてくれる。 |
坂の中途(略図D)で落ち葉掃く女人(ひと)に出逢った。
「この大風は大変でした、落ち葉、千切れた枝が坂道を覆
いました、秋冬の荒々しい大風は天空の掃除屋さんなので しょうが、道掃く仕事がわたくしの務めになるのです・・・」 枯れ枝、落ち葉を焼く焚(た)き火は、風を起こし、昇る煙
は折れ曲がる坂に負けじと曲がりくねり、坂を見下ろして立 つ地蔵堂にも、うっすらと巻き付いていく。 「坂にはだれが 付けたか、昔から呼び名があります。この坂が『大坂』(写 |
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真8)、その先を左へ上がるのが『小坂』、一本北の坂は『谷 戸坂(やとざか)』が通っています」 尋ねに答えて、熊手(くま で)を持つ手袋を宙に浮かべて指さしながら、坂の女(ひと)は 教えてくれた。 坂ひとつひとつには違う表情があり、だから固有の名前が 付いている。地元の人々には、「大坂」「谷戸坂」「天竺坂」、 その名は馴染(なじ)んだものになっているのだ |
■5 いぼとり地蔵
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丸く彫った穏やかな地蔵さま(略図D・写真10)。80センチはある石像は赤い頭巾(ずきん)を被(かぶ)り
前掛けをして、錦(にしき)のちゃんちゃんこを着ていらっしゃる。千羽鶴(せんばづる)が下がって野の花がガ ラス瓶に挿してある。足元に小石(写真11)が積んであるのは、昔からの信心からであろうか。治癒(ちゆ) を願って小石を戴(いただ)いて帰り、病が治ると小石を増やして地蔵に捧(ささ)げる風習である。 周囲の文字から、相州高座郡深見村一ノ関講中が享保(きょうほう)3(1718)年霜月13日に像立したもの
と分かる。 気付けば、境川へ握り拳(こぶし)のように突き出た台地に一ノ関集落はある。西から東へかけて、急斜
面をくねりながら、3本、4本と坂は下りている。そのどの小道にも道祖神や地蔵さまやお稲荷(いなり)さん が祀られているのだった。(略図参照) |
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■6 八雲神社
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天王さまと地元では呼ばれている八雲神社(略図E・写真12)が谷戸坂にある。本殿脇(わき)、椿(つば
き)などの木立の許(もと)に石仏たちが、鉤(かぎ)の手に曲がってうずくまっている。その特徴を強いて書く と次の通り。 (番号は向かって右から左にかけての順序・写真13参照)
A 庚申(こうしん)塔(写真14)青面金剛(しょうめんこんごう)立像。大和市で最古の青面金剛像。天和4
(1684)年。 B 庚申塔(写真15)青面金剛立像で、日と月が象(かたど)られている。
C 庚申塔(写真16)下にはミザル・キカザル・イワザルの三猿がうずくまっている。
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D 庚申塔(写真17)青面金剛立像 Bに似た像。
E 庚申塔(写真18)大正9年11月吉日に一ノ関講中によって建てられた新しい塔。
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F 地神(ちじん)塔(写真19)文字『地神塔』と表記された文政11(1828)年8月像立のもの。
G 石祠(せきし)(写真20)大和市域では最古の石祠。明和3(1766)年7月吉日に造られた祠。
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■7 針金で括られた石
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集落では、お互いをイエナで呼び合う。由来は家業にま
つわるものや隣同士の位置からくるものなど、さまざまで ある(略図参照)。「ミナミ」(略図16)とは、集落最南の農 家。その北隣は石油発動機で精米などを家業にした時代 の通称から、「ハツドウキ」(略図15)と呼ばれていた。この2 軒は高速道路の建設で屋敷を失い、東に家を移し替えて いる。「セド」(略図9)と「ムケー」(略図8)は、両家が「裏(セ ド)」と「向かい」の位置にあり、「カサ」(略図6)とは奥の家 を表す。 |
イエナを調べさせていただいた「シモ」(略図14)の家、小林峯(みね) 太郎家では数体の石仏を祀(まつ)っていた。屋敷東の坂の登り鼻 (略図F・写真21)である。 ブロックで囲まれて、石仏たちが安置されている。中には、寛延3 (1750)年に像立した弁財天が五輪塔などと身を寄せ合っている。 この石群れの中、奇妙な石塊が目に付いた。傷んだ五輪塔の上部 に、2個の球体を繋(つな)いだ石塊が載せてある。太い針金で括り 上げられている。石は黒々と焼け焦げている(写真22)。 この地域では、小正月に火祭りがある。道祖神など石の神を中に して、ご用済みのお札(ふだ)や門松や注連縄(しめなわ)を積み上げ て火を放つ、伝統行事である。その火中の神としてこの石塊は役を 果たしているのだ。 |
括られている石は、五輪塔が崩れて、その後、上部の空輪・風輪が小正月の神になったのだろう。
括られた神をセーノカミと呼んでいること、セートヤキの折に火中に投じる神であることなど、昔からの風習を小林
家当主からうかがうことができた。 |
■8 セートヤキ
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境川河畔の田んぼには3本のあぜ道があった。幅6尺(180センチ)の一つは境川に架かる丸太橋(略図
G)へ抜けていた。丸太を真ん中から挽(ひ)き、腹を上に並べた素朴な形をしていたという。このあぜ道で下 講中(略図11〜16)の人たちがセートヤキをした。 湧(わ)き水が豊富な地区で田中を小川が流れていた。その小川へ突き当たるあぜ道では、上講中(略
図1〜10)の家々がセートヤキをしたものだ。火の祭りが終わると、真っ黒に焼けたセーノカミは当番の家2 軒が持ち帰り、丁重に祀る習わしであるとか。 |
セートヤキは風を呼んでくる。正月飾りの注連縄・門
「当番が200円ずつを集めて、なにかと準備から世話を松・達磨(だるま)がいきよいよく燃え、ひらひらと燃える 紙片を風は空へ巻き上げる。境内の一角に赤い消防車 が一台控えて、行事を見守っている。 している。セートヤキするのは2か所で上下2講だった が、今はこの八雲神社1か所でやっている。稲荷講も春 秋2回だったのが春2月の稲荷講だけになった。伝統を 守っていく講中の行事も、これからはどうなるだろうか」 小林さんの声を聞きながら、火中から取り出された針金 |
で括ったセーノカミにレンズを向けた(写真25)。何代目の セーノカミなのだろうか。江戸時代から引き継がれている 行事・セートヤキで主役を勤めるセーノカミが火中から見 てきたのは、何か。取り囲む集落の人々の顔を幾千見て いるに違いない。そして移り行く時代も。 一ノ関は坂の集落で、迷路の集落である。迷うことを楽 しんで、巡り歩き続けた・・・。いつしか再び大坂を登って いる。曲がり重ねてあゆみながら、出逢(であ)った小林さ んたちが子どもであった時代を思い描いた。 |
以前まで地蔵を煙らしていた落ち葉焚(た)きは静まってい
る。が近付くと、突然熾火(おきび)がぱっと燃え上がってまた 辺りを霞(かす)ませた。 その昔、小正月の夕刻、少年たちがあぜ道へ急ぐ。正
月飾りや書き初めをひるがえし、拳大の団子を3つずつ刺し たクヌギの長い枝をかかげて、集まってくる。講中の世話人 たちがセーノカミを据えその上に注連縄・門松・お札を積み 上げる。その年の恵方の方角から火を付ける。火の勢い は風を呼び、煙はその風に舞う。 昔の風景には邪魔だてする高速道路はない。山田橋と
丸木橋、堰と用水の流れと田畑、大空と大地を区切る 黒々とした山林。丘を下る小道に見え隠れする化粧した 地蔵や道祖神や赤い鳥居の稲荷社。そして向こう、境川 |
対岸の畦(あぜ)でもセートヤキの煙が上がっている。瀬谷でも歳(さい)の神を祀っているのだ。かすみながら煙は川
を越え、互いの火祭りの煙は連れ立って舞う。煙には境する川はなかった。 いぼとり地蔵前、昇る焚き火の煙につれて天空を仰ぐと、大きな自然とひそやかな農家が浮かび上がってくる。そ
れは魔法の仕掛けに落ちた箱庭。なんとその箱庭の中を、「日本の故郷」の原風景がのびやかに広がっていくので あった。 |
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